スポンサーサイト

  • 2015.10.23 Friday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


お香

睡眠は言うに及ばず読書も自習も作文も、寝そべりながらでしかできない。田山花袋よりも蒲団している。極限まで精神が解放されないことには万事につけ人一倍おそいひとなので、会社にも蒲団を敷くことができたらと思っている。姿勢を正すほど、私の気持ちは姿勢そのものに向けられる。気をつけとはよく言ったもので、私はいま傾いていないだろうか、お辞儀の角度は不気味になっていないだろうか、気になりだしたら最期、動きはますます機械的になる。映像に捉えられた自分を見て、所作の奇怪に絶望するのは私だけではないだろう。話を先に戻すと私は蒲団時間が人生においておそらく他の人よりも長い。正岡子規とまではいかないにせよ長いので、快適を求めて香を焚きたく思い買ってきた。膨大の中から、寺のような匂いのものを選んだ。ところが香炉の蓋を閉めると酸素不足かしらん、消えてしまう。設計に問題がある。ゴミを売っちゃあいけない。結局灰皿にコーヒー豆の滓を敷き詰めてそこに棒状の香を突き刺している。キョンシー(霊幻道士)で茶碗の米に箸を突き刺す場面があったがちょうどあの具合だ。お香を嗅ぐと、田舎から上京して一人暮らし間もない女学生の部屋という印象を覚える。お洒落というものを足し算でしか表現出来なかった彼女たちの若さ、香の匂いによって部屋の装飾までもが容易に想起させられた。朧な輪郭を与えられた記憶の中でも、私は蒲団の中にいる。今にして思えば、地元から離れ過去からの脱却に成功、匿名性を帯びたことにより新たな女として生まれ変わるべく意気揚々と都会へやってきた大学一年生女子の貞操観念は、自分が親なら剥き出す白眼も血走るほどに、獣だった。

谷崎潤一郎マゾヒズム小説集を買った

 集英社文庫から本日発売されたこの書物、『沼田里奈』という人の装丁が良かったので既読だらけではあったけれども購入して、読むだけの余力もなかったところにとりあえず開いてみて驚いたことには、巻末の鑑賞がみうらじゅんだった。谷崎潤一郎をみうらじゅんが語る。私は両者を好いているけれども、これはラーメンとピザを混ぜるような愚行、美味い物と美味い物をかけあわせた挙句に変なものが出来上がった。脳の中で面白さの質の違いを認識した上で、私は谷崎とみうらじゅんがたいへん好きで、そこを混ぜられて、俄然冷めた。


 購買層の拡大を、谷崎文学から観念的な要素を抽出し且つはポップに仕上げた見事な装丁と、SMを非常にしばしば語るサブカルの重鎮みうらじゅんで狙った編集の意図は商売的には成功を踏むだろうが、サブカル人が文学の垣根を悠々たる足取りで乗り越えてきたこと、というよりはむしろ作り手側が積極的に呼び寄せたことに、出版社側の焦りを読み取る。SMと云えば団鬼六、団鬼六をよく語るのはみうらじゅん、数珠つなぎ方式でここまでは出版畑の人間なら誰でもすぐに思いついて、それでもやっぱりないわとその安直な思考を恥じ、口に出したのもまずかったと自らの無才を容赦なくぶった斬らねばならない類いの、気を衒っているようでその実、捻りなどどこにもないキャスティングに、大いに失望した。


 ネットという新媒体に垣根を破壊されることにはどこまでも保守的な割には、文学という大切なコンテンツを自らぶっ壊しにかかることにかけては意欲的なこと途方もない。イラストレーターでも宮大工職人でも何にしてもそうだが、専門家という人種を世の中がもう少し大切にしないことには、いざ気合いの籠った作品を造りあげようとアイデアマンが躍起になったところで、急所の適役がいないなんて事態になりかねない。このままでは巻末の解説が櫻井翔になる日も近く、そんなくだらないものの頁分の金を出すのはたまらなく惜しい。そもそもせっかく自分なりに物語を咀嚼し、余韻を楽しみたいところに直後、あたかもこの解釈が正しいのですよと云わんばかりに掲載されている現今の解説文化をこそ出版社は廃止すべきだろう。物語解釈の擦り合わせは、友人か、嫁か、もしくは2ちゃんでやれば宜しい。どこまでも広がってゆく世界観にぴっしり蓋してしまうのが、解説の役目になってしまっている。私には悪習としか思われない。


 併せて購入した『錯視芸術』なる書物は、これもまた装丁にエッシャー作品を施してあり見た目に素晴らしく、それ故衝動的にアマゾンしたのだが、今後パースをびしばし書いてゆかねばならない自分にとっては立面平面等の基本の基本が平易に解説されてあって、存外に実用の趣をそなえていた。


 今回の二冊に関して、かたや失望、かたや実学的で宜しいと、このように考えてしまうことは悲しいことである。かつてあれだけ自らを魅了した無類の美文家谷崎潤一郎の作品すら、いまいち頭にぴんとこない今の自分はまったく頭が凝り固まってしまっているようで、峠を越えたら戻ることができるのか、それともせっかく丹念に育てた苗を蹂躙し区画整理して人工的に即金を求める仕事脳の盛んな自分が今後の自分となってしまうのか。まこと私は今、アイデンティティの揺らぎに戦慄いている。つまらない人になってゆくさまを自覚的に捉える、これに勝る痛苦もなかろうと思われる。


『ポケットの中に何が入っていたら面白いですかねえ?』


 笑いの方向に頭の鋭敏な某から唐突にそう問われて返答に窮した友人は、


『桂馬かな』


 という某の自己完結的な発言によってようようその場を凌いだというが、その時の心の傷決して浅からぬものであったと私に語る口ぶりが今なお悔しさに溢れているのは矢張り、かつての自分ならそこで気のきいた発言が出来たはずだのにという、鏡ありきで気づかされる己の精神的貧困と向き合ったがためであろう。営業なりで相手をおだてる言語とは根底から異なる高度に洗練された自分本来の言語が意図せずして脳から消失してゆくのは考えても悲しいことだ。私は、自分の甚だ軟弱な地盤を固持しつつ、生きることの厳しさを谷崎作品に読み取った。


 ところで電子書籍に先駆けて青空文庫を携帯で閲覧する人の増えている昨今だが、まさか電車の中で毎朝『我輩は猫である』を読む人が多数であるとは思われない。そうなると膨大な短編を残している芥川あたりが意図せずして現代人の穴埋め作業としての文学作品需要はまだまだ残っているライフスタイルに調和し、なんとなく人気を再燃させるような気がしている。主流は再び短編へ。そうしてみんな芥川を読み込むうち彼の狂気に己の気をも錯乱させられて、心の奥底ではよっぽど電車のホームに飛び降りたい。満員電車の異常性に気づくきっかけとしての芥川、大いに結構。時代を代表する天才共がこぞって文学していた明治から昭和初期にかけての小説群はまこと、日本の宝でございます。


 
 

 

回眸一笑百媚生 六宮粉黛無顔色

 表題に掲げたのは白楽天の楊貴妃に捧げた詩で、


「眸(ひとみ)めぐらせ一笑すれば百態の艶やかなるに六宮の姫妃其の顔色を失す」
(私が勝手に翻訳したので誤っていたら訂正を御願いします)

 凡百の美女ではたとえそれが姫であれ妃であれ楊貴妃の爪垢にも及ばぬと、そういうヨイショを白居易がしておるというわけで、まことに結構。長恨歌と源氏物語のつながりは云うに及ばず、平安文学に多大な影響を与えた日本では抜けて評価の高い唐代詩人こそこの白居易で、そんな氏が一人の女を稀代の名句で褒めちぎっているからには、楊貴妃の艶やかなることいかばかりであったろうか、場末のキャバクラに連れて行かれて沢庵のような女性が隣に来たためわざわざこんな話をした。説法であり、皮肉である。分相応というものを知り、他の職に就けば彼女が陰口を叩かれることもなかろうに。たとえば私が証券マンに間違ってなってしまったら、経済白痴ぶりをどれだけ罵倒されることか。厚顔は悪いことではないが、適材を適所に据えぬことで今日もまた世界のどこかで過ちが繰り返されてゆく。私はそんな世の中が憎い!


 物造りに秀でるクリエイティヴ極まった女性と知り合い、大いにエンパワーされ、表現というものの可能性に改めて感嘆した私は、もうなんでもかんでも造ってみたいのだが、何も造れないので通信教育を受けることにした。実を結ぶに時間のかかる類いのものだが、数年後には何か拵えることが出来るかもわからない。義務と願望とが織物の如く密に絡み合う、それが現実社会ですから日々の会社勤めと毎月不定量のライター業に加えて現在勉強中の新たな技能を更に一つ得て、それらが融合して大きな円を描くことが出来たらば、これに勝る喜びはない。


 月収というのは幸福を思えば全然尺度にならないが、一種安心の源泉でありまた、望む活動を叶える動力でもある。アベレージとして手取り毎月六十万超えを叶えること、これが一昨日28歳になった私の金銭的な目標となっている。会社からの給与は血を吐く程に薄給なので、それを補うライター業務、これがどこまで安定するかが鍵ではあるものの、それ以外にも私宛の頼まれごとがちらほら出てきたので、そういうものを十全にこなせば、もちろん忙しいけれどもたいらにして毎月六十の壁は、そこまで難しいものではない。今日日フリーライター一本で食うのは会社専属で一誌を丸々持たされているようなよほど出来る人間でない限りは夢と時間こそ無限に存するが金がないという中央線コースを辿る。そうして高円寺の飲み屋の常連となり万年劇団員や万年作家志望と虚しい夢を虚空に描き合うのような堕落へ至る。ちょうど私がそれになりかけた。社会人とライター業務の平行作業は精神衛生的にも宜しくて、私としては今の土台を利用して、一層暗躍したい。匿名性を保持したまま金に困らぬ生活こそ私の本懐、ここが通常の人と乖離しているわけだけれども、こればかりは勝間女史の鼻の穴よりも深い理由があるので、致し方ない。
 

 こうして無価値の駄文を散らかすうち全然作業が捗らず深夜。
 

 


 


 

三匹の子豚

 用あってこの童話を再読した。昔ながらの町の本屋にはだいたい、入り口付近に丸い鉄製の回転棚が置いてあってそこにはずらり薄い童話が並べられているのであるが、これはブティック社発行の『よい子とママのアニメ絵本』シリーズで、私はまずこれを入手した。


 自活を促された三匹の子豚がそれぞれ藁(わら)、木、煉瓦(れんが)で家を造るも、狼がやってきて藁は吹き飛ばされ木は破壊され、ただ煉瓦造りの家ばかりが災を免れ、最終的には煙突から侵入する狼を熱湯風呂へ落とし込み、成敗するというのがあらすじとなっている。


 狼は豚を食わず、最終的に狼も殺されず、殺生を省いてあるのは時代性であろう。元はイングランドの伝承文学で、ジェイコブズの原著をあたってみたところ、やはり三匹の豚のうち二匹は食われ、最後に残った三男坊は奸計の末に狼を殺し、しかも食っている。身内を胃に溶かした狼を食らうことでめでたしめでたし、カニバリズム的な猟奇性が平然とまかり通っているところに、いかにも童話らしい無邪気な恐怖が窺えた。


 他にもジェイコブズは酷似した物語を遺しており、こちらは怠惰な長男が泥製の、食いしん坊の長女がキャベツ製の、実直な三男が煉瓦製の家を造る。そうして襲ってくるのは狼ではなく狐で、長男と長女は同じく食われるものの、三男が熱湯風呂で狐を殺した後に腹を割いて兄姉を救出するという筋書き、最終的には豚のどれもが助かっている。消化されずに個体が残っているというディフォルメ的な発想は、後のトムとジェリーやディズニー作品に継承され、日本ではとりわけギャグ漫画にその影響を見ることができる。とはいえこの類いの発想は世界に散らばる童話なり説話なりに共通している、何も三匹の子豚に限った話ではない。


 たかが狐如きが丸々肥えた子豚を二匹も丸呑みできるはずがない、という夢のない揚げ足とりはさておいても、私は日本人としてこの童話に違和感を覚える。というのは、この童話は序盤の建造物のくだりにおいて『煉瓦最強説』の立場をとっている。藁は木に及ばず、されど木は煉瓦に如かずというわけである。確かに煉瓦は堅いけれども、これは地震にとても弱い。白人種が日本に住んでまず驚くのは梅雨時の鬱陶しさと通勤電車のユダヤ人護送列車並の密度と、加えて地震の多さで、彼らは地面の揺れに慣れていないため震度も三を超えれば非常の恐怖を覚える。であるから彼らにとっての強度とは、手刀や蹴りに対する耐久性であって、揺れに対するものではない。


 地震列島に住まう我々日本人は、家を建てるにあたって衝撃に対する耐久性より何より地震がきても崩れないか否か、を心配する。日本の建築基準法の厳しさは世界一で、そのぶんデザイン的に面白い建造物を建てられないのだが、たとえばこの童話の紡がれた当時の煉瓦造りの家などというものは横揺れの大地震一発で間違いなく木っ端である。イングランドという地震のない土壌あってこその煉瓦礼賛、日本人の発想なら狼が地面を足で踏みつけて地震を発生させてぐちゃぐちゃに崩すくらいの筋書きを思いついたはずで、石による建築史を持つ国と木による建築史を持つ国との間にある見識相違の溝は深い。木造は、あそびのあるだけ煉瓦に比して揺れに強い。しなるのである。


 そもそも、いかに煉瓦造りといえども扉はさすがに木造であったはずで、木造住宅の打たれ弱さを主張する割には、煉瓦の家の扉が破壊されないというのもおかしな話だ。


 そのあたりを上手に咀嚼して、私なりの三匹の子豚を完成させねばならぬ。考えても壮大な手間である。間に合うのだろうか。

 
 


 

青空に文庫飛び交うカモメかな

 私の部屋には本棚に収まりきらない本たちがレンガのように積まれていて、それはレンガの積み方で言えばフランス式でもイギリス式でもなくドイツ式で、東京駅のレンガもよく見ればドイツ式であるから情景はそちらを参考に想像して欲しいところだが、住まう人間にしてみれば外壁たるべきものが室内にそびえ立つのは邪魔なこと甚だしい。何度も読み返す本など数が知れているから捨ててしまえばスッキリするのだけれども、読了した本というのは物質となって存在する己の知識の化身のような気がして、捨ててしまったらさいご、そこに書かれた言葉たちをも忘却してしまうような気がして、もたつく私は、三浦しをんはおろか、サイバーブルーすら未だに手放せない。コレクションというよりは勿体ないに近い感情があって、上等の菓子箱を用もなく保管しようとする婆さんのような決断できなさに部屋を狭めている。


 ところで著作権の切れた名著を無料にて閲覧できる青空文庫はウェブを操る読書好きなら誰もが知るサイトであるが、私は最近iPhoneで豊平文庫というアプリを入手してこの青空文庫を活発に利用している。文字は縦表記、フォントも美しければ級数も選べる。読みやすいこと限りなく、八時間を通して文字を睨み続けたりしない限りは目が疲れることもない。蔵書は膨大で、明治以降昭和初期の作品ばかりが埋まっているという点も私には非常に嬉しい。


 私は大抵、月に二十冊は何かしら小説を読むほどの読書好きであるから、紙への愛着は少なくとも尋常の上をゆくと思っている。けれども、iPhoneで青空文庫を嗜むうち、本を開くのが面倒になってきた。というのもこのアプリには特有の利点があって、データを開いた本が好みでないと判断するやすぐさま他の本を検索して次にかかることができる。電子書籍の利便性に惹かれて、というよりはむしろ無料で膨大な本を読み放題な青空文庫だからこそ、目下のところ読書作業をiPhoneに依存する形となっているというのが本当のところだ。だからダウンロード購入をするかと問われれば、これはまだまだ疑わしい。無料だからこそ、しっかり全集を揃えてある夢野久作作品すらiPhoneで読んでしまう。布団から出たくない自分のような豚にとっては本棚すら穿る必要のない、まこと夢のような時代が到来した。文字は文字でしかないのだから、ディスプレイが液晶だろうが紙だろうが、美文は美文、悪文は悪文である。


 夢野久作といえば、ポッドキャストでドグラマグラの朗読を無料で聴くことができる。活字で読むのが煩雑で面倒だという人は是非こちらを利用して、通勤電車の暇を狂気でみっちりと埋めていただきたい。興味のない人はコロプラで散歩を楽しむも好し、いずれにせよ散財せずして好奇心を満たすに困らない時代に生まれたことはそれだけで有り難いことだ。    

今の代表には若禿が足りない

 オランダの前に日本轟沈。中村は三流スポ魂サッカー漫画みたいにパス出す出さないの低次で本田といがみあっている場合ではないはずだが。


 実力には当然開きがある。けれども前半のがたついたオランダには付け込む隙があった。


「まあ、緩急がないやな」


 中盤でのパス回し、それに伴う各人の動き、前線からのプレス、これらは強豪をして「すばしっこい」と云わしめる日本唯一の長所だが、詰まるところペース配分の無視であることが、もうずいぶん前から分かっている。密度の詰まりきった全力の全力を90分間続ける難しさを猛省するべきだとの言葉は多くの人から聞かれる。はじめ早くあと遅い、これでは野球なら打者のカモ、ベッドの上でもスタミナないねと女に笑われる。後先を無視して目前に死力を尽くすばかりでは計画からしてが破綻していると云われても仕方ない。曰く、大東亜の頃から何も進化していないじゃないか……!


 しかし、相手の綻びを見逃さずに一瞬の隙を刺す、これができるストライカーがいないのも事実、それがため日本はT-REXブギーのような反復ばかりを武器にして、その中に起こりうる相手の例外的行為、つまりミスを求めるしかない。単調で退屈な戦法ではあるが、それ以外に可能性がない。久保のような強豪相手にも得点の匂いのするフォワードがいない以上は、全員が超人的な体力と精神力とを育んで90分間あのスタイルを貫くしかないというのがおそらく岡田監督の弁であろう。が、はっきり申して、あまりに非現実的だ。体力はもちろんのこととして、日本代表はメンタリティにおいても、強豪からよほど劣っている。勝ち方を知っている国を相手にしてはやはり、赤子が手を捻られるの感が否めない。もっとも、一旦足が止まってしまってはやりようなど存在せず、そのあたりは全く岡田監督の過失だが、予選を勝ち抜いた実績は決して更迭を許さない。我々応援者はもはや、個々人の大覚醒を待つほかない。つまり、勝てないということだが……。


 どうすれば日本は強くなれるのか? 強くなるというのはつまり、強豪に並ぶと同意である。強豪にあって日本にないもの、身長パワー精神力と挙げたらキリがないけれど、それらいずれも一朝に容易く改善されるものではない……。


中日和田「若禿の不在はたしかに積年の問題だ」


 そうだ、日本代表は今こそ、若禿の補填を目指さねばならぬ。本番まであと九ヶ月、改善できるのはズバリこれしかない。浅田真央似のセンターバックはたしかに猛烈な速力で薄くなってはいるが、彼一人ではできることも限られる。しかも、若禿という見地から鑑みた場合、トゥーリオはまだ『フサフサ』である。オランダにはスナイデル、イングランドにはルーニー、そうしてアルゼンチンにはカンビアッソと完璧の若禿がピッチの内外に輝いているように、日本代表にも誰かしら、決定的な禿を選ばねばならぬ。そもそも、日本社会には、「禿げたらそこで試合終了」の如き通念があって、禿手にとっては実に脅迫的な植毛のCMが日々垂れ流されており、ポジティブな若禿の蔓延る西洋諸国と比べても、格段に厳しい世相を生きている。ペシミスティックになりがちな不毛体質を受け入れ現在を懸命に生きる禿の精神力こそ、まこと代表が求めるところの能力である。
 

 少なくとも日本は今後、禿を三人は投入して、サッカー先進国に並ばねばならぬ。強豪に並ぶというのはつまり、強くなると同意である。

近代デジタルライブラリー

 江戸から明治からの作品をやまほど読みたい人は、近代デジタルライブラリーをしげく利用すべきだ。自分は黒岩涙香訳の岩窟王ならびにああ無情が実に素晴らしかったため氏の情報求めつウェブを徘徊していたところに偶然これを見つけた。国会図書館収蔵作品を、閲覧はもとより保存更には印刷も可能、手間ではあるが貼りあわせれば本にもなる。古書を求めれば幾ら請求されるかもわからぬ希少本も多く、僥倖に巡り合うとはかくの如しである。

 ぜんたい現代の主流媒体は映像で、新しいだけに可能性にしろなんにしろ、この分野にはまだまだのびしろがある。しかるに文字、退化の一途と云うほかない。石に彫るところから始まった文字文化の歴史深いこと他媒体に類を見ず、音楽や絵画と比したところで成熟度合いに劣ることまず有り得ぬにもかかわらず、である。


映像の登場するまで長らく媒体の王者として君臨していた文字は、成熟が度を超え、しまいに腐った。洗練や丹精への意思、抽象美の極点への正面からの挑戦は、せいぜい昭和中期にはすっかり絶えた。口語などと楽な方向に流れた時点でもう、滅びたも同様である。

 難しい話でもある。そもそも文字は人のあらゆる手段の根本であるからには音楽にも絵画にも遥かにまして実用的であることが求められる。そこに芸術めいた観念が混在しているからややこしい。園児の会話も村上春樹の新作も構成要素が言語である点は等しく、であるからこそ言葉は時代の鏡とかいう詭弁も説得力をそなえてしまう。あきらかに文章が合理の性質に引っ張られている。抽象の美学も合理に劣らぬ文章の値打ちだのに、片輪になってしまっては魅力も半減、平成に空虚漂うのも、或は言葉から骨が抜かれたことに原因がある気がしないでもない。言葉が軽くなればそれだけ空気も浮ついて然るべきであろう。


 サイゼリヤで飯をしていたところ、髪を工夫した隣席の男共のうち一人がペイしろペイしたペイせねばとペイについてばかにうるさく、一つ覚えみたいに同じことしか云わぬ人間はまず口ばかりで実務に全くうだつあがらぬ場合が多いことを思ううちドリアが不味くなったのであるが、三百円としない食物に多くを求めるのも大人気ない。


触れるもの全て毛むくじゃらになるのような奇病におそわれてくれますよう。



舞台・細雪

 いくらか前の火曜、或る女性との間で約束をしていた細雪の舞台を観に帝国劇場まで足を運んだ。待ち合わせ場所で煙草をくゆらせながら梅雨の曇天・二十九度の気候に不快な汗を滲ませていると、歩道の彼方に目の覚めるような赤色の洋服で着飾り、日傘を片手にこちらへ近づいてくる女性が見えた。はたして、観劇を共にするところの彼女であった。


「ごきげんよう」
「久し振りだね」
「あら、そうかしら」


 派手な赤色の服にもかかわらず彼女が少しも暑苦しくないのは、ガラス板を何枚も重ねたような冷たい透明度を持つ白い肌と、細工物のように華奢で繊細な指先とがこちらの目を涼ませてくれるからであろう。細雪をはじめとする谷崎作品への想いを云い云いしつつ、おれと彼女は劇場に入った。


 席は、最前列である。相撲に劣らず、年齢層の高い空間である。開演にはまだ時間があったので土産物を眺めたりしながら適当に時間を潰した後、飲み物を買うと再び席に戻った。適当な雑談で暇を埋めていたところ、こちらを目指してガヤガヤした中年女性の一団がやってきた。


「あら、こんな素晴らしい席で良いのかしら」
「凄いわね、まあ凄い」


 彼女達も舞台は初めてと見えて、それだけでも高揚しているというのに、くわえてなんと席が最前列であったということで、いよいよ騒がしい。しかしながら、お客様、たいへん申し訳ありませんが、お客様の座席はI(アイ)列で、こちらXA列となっておりますので、たいへん申し訳ありませんが、あちらになります、そのような係員の指示を聞くなり、あら、やあ、なんだなんだ、がっかり、などと失望の念を惜しみなく、さりとて嫌味もなしに放言し合う中年女性達なのであった。どうやら、Iを1と勘違いしていたようである。


 五時きっかりに舞台は開演、幾度かの休憩を挟み挟みしつつ、美しい桜の仕掛けの披露を最後に、舞台は終わった。


 ここからは感想になる。あれだけ長い小説を三時間やそこらでまとめあげるのはやはり不可能であったらしく、内容はといえば再構築の亜種といった様相を呈していた。作中にはない逸話なども含まれていたが、それはあの尺を考えれば、仕方のないことであろう。


 配役には多少の不満を残したが、皆一様に美しくはあった。しかしながら、骨細の色白、蚊の鳴くような声でお馴染みの雪子を宝塚出身の檀れいが演じたことにより、そのか細さは、いまいち再現されていなかったように思われる。声が張り上げられすぎていた。客に聞こえない台詞回しなど意味がないのだから仕方ないだろう、そんな風に反論をするむきもあるかもしれないが、小説において、雪子の台詞はそもそもからしてだいたいが意味をなしていない。もごもごしているばかりである。いざという時に声を荒げる雪子に一同が慄然とする、そんな描写が雪子の人物像に奥行きを与えているのだから、舞台上にも同様の仕掛けが必要であったように思う。


 良い小説というのは、そのどれもが特有の世界観を備えている。それは小説に限ったことではなく、あらゆる表現物において同様である。それがため人々は宇宙世紀の暗記に熱を上げる。描かれている世界から、更に余白を想像させることが出来る作品は、まず良作である。


 しかるに、谷崎潤一郎の細雪は、その世界観の緻密、一貫性、想像の余地においては文句なしである。それは読者を前にして、広がる物語でしかない。かたや、舞台のほうは原作の再構築という過程を踏まえた上で成立している以上、物語そのものは断片的である。流れるような一貫性はない。である以上、その本質は物語ではなく、目の前の人間が演じているという緊迫感にあるのではなかろうかとも思えてくる。これは舞台経験の乏しい故かもしれないが、おれは、長い台詞になるたび言葉に詰まることを心配したし、同時に期待もした。つまり、事故を求めたのである。そんな心持ちで、物語に没頭出来るはずもない。


 どこの場面の何がどうであったかなどは、細雪の舞台などよほどの年寄りくらいしか観ないであろうからあえて割愛する。興味深いものではあったが、これをきっかけに帝国劇場に足繁く通う、というほどではなかった。とはいえ、良い経験になったのは、事実である。そこには、演者達の努力の跡が見えた。


 ただ、真の芸術は、そこに一切の努力の跡を残さないのが常である。なので、細雪を観劇したからといって、それが芸術的なものであるという感想は、一切抱かない。あくまで、娯楽であった。たぶん、実際の評価も娯楽なのであろう。
 

 一緒に行った女性があの女性であったから、楽しかったようなものである。背徳。彼女にばれたら、ベアクロウで脳みそに穴を開けられてしまうところの、一日であった。

吉野家・鰻

 鰻という生き物があって、蒲焼きにすると美味い。現在、吉野家ではたったの五百八十円で味わえる。食ってきた。


 店内は朝の早い中年男性に独占されていた。適当な席につく。瓶ビール二本を牛肉で空けた赤ら顔の中年が隣席からこちらを見てくる。相手にしない。


 早い・安い・うまいが売りというだけあって調理も迅速、鰻にしてからが三分としないうち出てきた。いただきます。加熱の過剰か知らないが、身が反り返っていて、生前の姿が想起された。いただきます。箸で割く。皮が伸びて切れが悪い。かじりつく。してみたところ、本来美味いはずの皮にのった脂が、どうにも臭い。身も薬品の残香がある。舌に合わないというか、食物として成立していない味の低さなので、ひとまず箸を置く。ごちそうさまでした。


 中島みゆきの歌に、狼になりたいというのがあったが、あれは確か深夜の吉野家を主題とした曲であった。ぼんやりしながら再びどんぶりに目を落とす。タレの茶褐色に包まれた米粒が照明に煌めいている。ゴキブリの背中のようである。再び箸をとった。いただきます。米は、鰻に侵略されていない箇所を穿れば、美味いところもある。対して鰻は見た目からしてずいぶん臭い。しかしこのままでは米が勿体ない。そこで牛皿の注文を追加すると、空いた皿に鰻をよけて丼に肉を乗せた。紅ショウガと七味を少々、かき込むようにして口元へ運ぶ。美味である。鰻を遥かに凌駕した、確立した味がある。とはいえただの牛丼である。会計八百六十円也、朝から贅沢をしてしまった。


 鰻は、二千円も出せば美味いものが出てくるであろうと考えられている、贅沢食である。昼食には少し高い。ヨーロッパで消費される鰻の年間総量は、丑の日近い日本の月間に及ばないそうで、日本人の鰻嗜好を象徴する数字である。


 吉野家の鰻は、身に締まりがなく、皮もぶよぶよというか、およそ皮らしくない質感が口に不快の印象を抱かせる。身のほうも、たいへん臭い。外国産であることは原価を見れば云うに及ばないこととしても、それにしたって五百円もあればもう少し律儀な食い物にありつけたであろうなとも思っている。

 
 たまたま巡り会った鰻が不味かったのだろう。あまり気を落とさずに。

細雪・通り魔

次女幸子(中姉ちゃん)
三女雪子(雪姉ちゃん(きあんちゃん))
四女妙子(こいさん)


 なんでこんな不安な社会になってしまったのやろうか、ほんに恐ろしい、知らん人刺すなんてきっと気狂いの仕業と私は思うねんわ、こいさんはどう考えてはるのん、そう一気にまくしたてると幸子は、感情の昂る時はいつでもそうであるように、またしても瞳に涙がこみ上げてくるのであった。というのも、犯人への怒りもさることながら、被害者の中に混じっていた女の子が丁度娘の悦子と同い年くらいで、もし今回の悲劇に遭うことさえなければ、あの娘の人生はさぞ彩り豊かに展開されたであろうと考えるとどうにも無念の情を抑えることが出来ず、更にはもし彼女ではなく自分の娘がこの憎むべき男によって殺められていたらと仮想する段に至っては、その心痛たるや致命的であろうと、母親として被害者の母の心情をまず第一に汲まずにはいられなかったのである。進取的な教育を受けてきた妙子は、なるほど万事にぼんやりしている自分や雪子よりも数段合理的で、姉勝りのところが日頃からあるものだから、きっと彼女には彼女の考があるに違いないが、大筋では私の意見に賛同してくれるに違いない、そんな風に幸子は、妙子の女中などに時折見せる情け深い側面を頭に描きつつ半ば同意を求める形で話題を振ったのであったが、彼女の返答はいかにも現代的で、


「ふん、うちは中姉ちゃんみたいに思わへなんだ、きっとこの犯人色々に追いつめられよってからに、自暴自棄になったと思うねん、社会とか、仕事とか、よう知らんねんけど、時代の空気云うたら抽象的であれやねんけど、兎に角この人だけに全部の責任乗っけてお終いていうのんは、それ絶対おかしいわ」


 そう云うなり、妙子はぷいと幸子から目を逸らすと、今度は雪子のほうをじろりと睨んで同意を求めるのであったが、雪子にすれば、幸子にせよ妙子にせよ、どちらについても二対一の状況へと変化してしまう以上はこの場の空気が更に険悪となることまず間違いなさそうで、ことによっては鮨を食べに出かけるという兼ねてよりのお楽しみをも奪われかねない。それならばどちら側の弁護へとまわることもなく、ぐずぐず茶を濁すことで話題自体をうやむやにしてしまおうと思うに至り、二人の豪の佇まいの間で骨細の華奢な身体をすぼめつつ、口の中でもぐもぐしながら何を主張するでもなく、ばつが悪そうにただニヤニヤと笑うのであった。


 谷崎潤一郎の『細雪』を読みながら、おれが秋葉原をウロウロしていたのは、午前十一時三十分のこと。ゆるい陽光に気だるさすら覚える穏やかな日曜であった。それから一時間後に、事件が発生したのである。
 

calendar
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< May 2017 >>
sponsored links
nekokiの本棚
twitter
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM