スポンサーサイト

  • 2015.10.23 Friday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


花村よ

花村よ ぼくは旅立つ
西へと向かう列車で
さびれた村から 君への罵詈雑言
放つ 放つつもりだ

  いいえ あなた 私は
  悪口いらないのよ
  ただ田舎の汚泥に
  染まらないで帰って
  染まらないで帰って

花村よ 半年が過ぎ
逢えないから是非泣いてくれ
田舎で流行りのスウェット送るよ
君に君に似合うはずだ

  いいえ ドンキの上下も
  キティ柄の草履も
  きっと あなたの禿ほど
  ダサいはずないもの
  ダサいはずないもの

花村よ いまも素足で
納豆の 腐ったままか
見間違うように 痩せてた僕の
写真 写真を見てくれ
 
  いいえ 女に悩む
  あなたが好きだったの
  だから 田舎の娘に
  捨てられてください
  捨てられてください

花村よ 君を妬んで
腐ってゆく 僕を許して
毎日不快に 過ごす山間
ぼくは ぼくは帰りたい

  あなた 最後のやさしさ
  贈り物をあげるわ
  ねえ 精子拭く セールの
  ちりがみをいちまい
  ちりがみをいちまい

中学時分に魅了された風呂敷について

  男女が同じ教室内で着替える習慣は、日教組の平等教育がもたらしたとかいう話を聞いたことがある。真偽は定かではないけれども、自分の学校時代を鑑みるに、中学までは確かに同じ教室で着替えをしていた。それがため女子たちはあの、裸体を晒さずに完璧に服を着脱する手品めいた芸当を会得せねばならなかった。誰に教わるでもなく小蜘蛛が糸を出すのと違って、あれは日々の訓練の賜物である。中には自宅で独り、鏡を前に練習した女子すら、あったかもわからない。体育の後、汗ばんだ身体を涼しげな風に預けつつ、おおいばりで乳首を腋毛をむき出しにする男子のかたわら、小さくなってやや寡黙にあの作業へと打ち込む女子たちは、平等、ジェンダーフリーを目指した日教組の意図と相反する形で、いやがおうにも男子の目を意識し、異性とはなんぞやの疑問が頭をもたげ、胸の膨らむが早いか恥じらいの心に芽生えるが早いかという按配に、思春期に没入していったものと踏んでいる。


 一方男子もただ勃起しているわけではなく、男子なりに芽生えるものあって、それは自制心である。今、真隣で女子が着替えている、見られたくないから変な着替え方をしている、きっと恥ずかしいのだろう、ならば見ないほうが良いのだろう、見たいけど、見たいけど、見たいけど、見よう、ああまずい目が合ってしまった、もう見ません。という具合に、我慢を知る。性欲のままに振舞ってはならない、これは男に生まれたら背負わねばならない宿命みたいなものだ。電車内で女性のスカートがどれだけ短かろうが、それは万人に向けられたセックスアピールではないのであって、中年男性が凝視していたらたいへん気味悪がられる。学校も然り、女子は別に男子のために着替えているのではない。乙女たちはみな、体育のためになんぞがさごそやっている。ゆめゆめ履き違えることなかれという女子の意図を、我々男子は、言語未満のところで理解せねばならぬ。こっち見るなと思われてはいけないのである。


 この、言語未満の感じあい、察しあい、これこそが男女間における妙であり快であり喜であり、つまり醍醐味、同時に最重要ポイント、算数よりも大事な技能、これのつたないことには彼女もできぬ。同性と違って、異性間では時として言語が役に立たない。なにか柑橘めいたものが大気に充満するような瞬間がある。それは、一語でも発したらたちまち、雲となって散り霧のように消えてしまう儚さと同時に緊張感を伴っており、脳内麻薬のズコズコに溢れる瞬間である。自分に気を許しているのかいないのか、手を回していいのか悪いのか、ただのこちらの妄想なのか、それともやはり向こうもその気なのか、等等、男女間においては読みあい、つまり心理戦を強いられる場面というのがあるということを、さながら国語教育をひらがなから始めるように、着替えというやさしい例を用いることで日教組は教えてくれたのであり、それがまた日教組の善行の全てであったと、そう踏んでいる。


 当時、自分の中学では脱いだ衣服をそれぞれ自前の風呂敷に包むという決まりがあった。袋でもよかりそうなところをあえて風呂敷と定めたのは、日本文化を要所に散りばめたいという大人ならではの無駄な啓蒙欲があったのだろう。更に加えて、自分の中学では掃除を体育着でするという決まりもあった。だから、五時限目の終わると同時にみな一斉に着替えを始めて、脱いだものを風呂敷に包み、机の上に置いて、めいめいの掃除場所へ行く。


 一年生の頃である。激烈に恋をした一人の娘がいた。彼女は「さゆり」という名前だったが、ここでその名前を出すとmixiやらで万が一繋がった時にバレてしまっては難儀するので、本当は「さゆり」だけれども、仮にここでは「しより」としておく。水川あさみのような強気の顔立ちをした非常な美人で、誰彼問わず周囲の人間の面白い部分を拾っては、小ばかにしてキャッキャ笑っているような、最下層民からすると実に性格の悪い女子であった。とはいえ、こういう性質は強いグループに属する女性にあっては別段珍しくもなく、だいたい、あいつ性格悪いよなんて云う男の中にも、彼女に惚れる野郎は少なからずいた。それは善悪で推し量るよりもむしろ、SとMで考えるべき関係性だろう。弱い男は弱いなりに攻撃されることを嬉しがっていたし、それを以ってコミュニケーションとしていた節もある。もちろん、そうする他に彼女と触れ合う機会がなかったという側面もあろう。それにしたって恋する対象がそもそも異次元というのは男の側の勝手な高望みであるし、考えようによっては構ってくれるだけ他の美女よりも優しくすらある。いずれにせよ自分は、天然パーマの男に向かって「お前天然パーマだな」と云って高笑いする彼女の、実に黒いユーモアをも無邪気と捉えたし、ありのままをありのままに感じることのできる純粋な人だと解釈したし、とにかくいつもの調子で美女故に神格化していたわけである。


 自分は、この、しよりちゃんの風呂敷を、未だにしばしば思い出すことがある。付き合った彼女の誕生日はそのほとんどを忘れたが、何故だか彼女のだけは実に脳にこびりついている。よっぽど恋していたらしい。何せゲームの主人公にもその名前をつけたし、恐らく、本人をはじめ、クラス公認の「片想い」だったはずである。風呂敷の話に戻すと、彼女の風呂敷は実に品の良い薄紫色だった。それは彼女の所属する部活のウインドブレーカーと同じ色で、彼女はウインドブレーカーの色がダサいことを嘆いており、しかしながら我らが男子テニス部も濃い紫色のウインドブレーカーで劣らずダサく、美男子の皆無であっただけにむしろこちらの醜さが際立っていたように思う。偶然ながら自分も風呂敷とウインドブレーカーの色がお揃いで濃い紫で、そういうわけで彼女の風呂敷の色をはっきりと覚えているのである。付言するなら、男子テニス部の絶望的なウインドブレーカーの色を推進したのは他ならぬ自分で、それは彼女の色に一番近いからという理由からそうした。幽霊部員ながらゴリ押しが出来たのは、つまりそれだけ男子テニス部がなよなよしていたということなのだろう。


 ところで、彼女の風呂敷の特質は色よりむしろ、その形状にあった。制服を綺麗に畳んでくるんで、上部を丁寧に結われた彼女の風呂敷は、誰の風呂敷よりもやわらかそうで、いつでも実に丸かった。どうしてただ服を入れてあるだけなのにそんなに丸いのですかと、嘆息せずにはいられぬほど形状として美しかった。(普段口の悪い彼女ながら、こういうところには女の子らしさが出るのだな、それにしたって他と比べても際立って見事に纏めてあるのだから美人はどこをとってみてもそういうものなのか)一人、感心した。女性の身体のような優しい丸みを帯びた彼女の風呂敷、この風呂敷に顔を埋めたらば、その感触は彼女の乳房と寸分もたがわぬことだろう…、汗に染まった制服の甘美なる芳香に、心のとろけてしまうことだろう…、いつしか欲望は彼女からその風呂敷へとうつろい、彼女を眺めるのと同様の恍惚の心地で、うっとりしながら風呂敷を見つめては勃起すること、再々に及んだ。


 それからというもの、小には水まんじゅう、大には東京ドームと、地面にへたりつつも上部には丸みを損なわぬ物体を見るたび、彼女の風呂敷を思うようになってしまったのである。彼女に告白をしなかったことよりもむしろ、風呂敷に顔を埋めなかったことに遥かに未練がある。もしあの時にもう一度戻ることが出来たなら…、告白するという選択肢もあるけれど、それよりも風呂敷をそっと持ち逃げすることを優先するだろう。それはあくまで二択であって、いずれもというわけにはいかぬ。というのも、告白して了承を得られたらその時点で肉体も独占したようなものだから二兎を得るわけでそれが最善であるには違いないのだが、どの角度から切り込もうともふられること、自明である。そうなってから盗んだら、犯人として真っ先に疑われるのは自分であろうこと、これまた同程度に自明である。であるからこそ自分は、風呂敷を選びたい。中身こそ未確認だが、おもちゃの缶詰よりは夢が詰まっていると踏んでいる。

 
 

頭痛

 メモは破って捨てていいよ、でも最後まで読んでよね。そんな歌詞があった。つんくと覚えるが、健気ながらもエゴ渦巻く恋愛末期の女性心理を巧みにとらえた佳文である。どんな状況であれ、女は狡猾であることをやめない、つんくはそうほのめかしている。

 繊細にして唯美である。彼の歌詞はイズムとしての女性崇拝に満ちている。君が先に眠るまでもったいないから起きてるのような思想を抱く弱い男がズルい女にそそのかされて、シングルベッドに詰まった過去を引きずるのが彼にとっての男女関係なのである。女の子から欲しいと言い出したってオッケー、男の子のほうが肝心な時に気持が小さい、対句を用いて語られる男女の対照は、女性上位への意志である。

 しかしながら、心の誠実どこにあるのかさっぱり分からぬ妖婦の色に、精神異常をきたす男が悶え苦しむたぐいの話、これをして哀れの情に解釈されたのは平安時分のみであり、弱い男に何らかの正当性を与えるいかなる片鱗も、以降には見受けられない。日本史を通じて、要所に声の大きくまた、時に殴打するくらいの男が結局のところ女性の心を掴んできた。馬鹿げている。カロリー消費数が愛情の度合いであるはずがない。

六道輪廻

 物理的というより心理的に、世界は余計な空間に満ち満ちている。煩悩はいつでもそれら隙間をボコボコと埋めてゆく。そうして今日も明日もあのコトやこのコトを思い出さざるを得ない。いったい人というのは誰もが感傷ばかりをその胸に籠めているものだろうか。孤独でないのに孤独の気がしてくるのが自分だけでないのなら、もっとこう、センチメンタルに吹かれた女性が出現して求愛してきても、よさそうなものである。してこい。


 思いを四季にのせて詠ずるのが日本の粋であるのなら、冬はしぜんそういうことなのだろうか。それにしても、間の美学とか、茶人じみたことを云う余裕はない。もとより洒落(しゃらく)の気質でもないのだし、割と前のめり気味の育ちをしてきたようにも思う。その実、神経に過敏でもあるから、推理ドラマを見ながら序盤五分で犯人を断定して、外して笑われて、傷ついてみたりする。目立ちたい割に繊細という相反する姿勢、太宰治だけは全巻が揃えてあるのも偶然でないかもしれない。


 今はもう、自分の周囲のマスを全て黒く塗りつぶさねばならぬ。放っておいても柑橘の色合いに染められることはない。思考を停止するほどの拍数で圧倒されたい。だから南米コロンビアのブラックメタルバンド『BLACK FIRE』を聴いたというのに。ミサンスロピック且つダークネスな曲調に心象は鬱々とするばかりである。同じくドイツのブラックメタルバンド『NARAROTH』も聴いてみた。これは全6曲で70分と、隙間を埋め尽くすの願望とは対極、大鬱盤であった。


 結局、行着く先はプログレ、タルカスである。ピコピコと一昔前のシューティングゲームの趣がある。生音とは思えないこの電子音風に乗っかる心情というものがあるとするならば、それはノスタルジー、生々しくも凄惨な或記憶の塊を飛び越えて、辛かったのか楽しかったのかも忘れてしまったような昔日への埋没をタルカスはもたらした。と、ここにきて閃いた。思い出したところで切なくならない年代の記憶が刻まれた音楽を聴けば良いのではないか?


 そうして今晩、千波万波と押し寄せる仕事を片付けながら、ミュー、マンドゥディアオ、キングスオブレオンその他を聴いた。いずれもデビュー盤、いずれも大学の時分に発売された作品で、いずれも或一人の女性と聴いた。良い時代ではなかったとも思わないが、固執するほどの何かが未だあるわけでもない。事実、仕事は捗った。


 ドボンの恋愛小説も、英語原書で読めば必要以上に感情が摩耗しないことまでは分かっている。

古今東西『彼氏に云われたい台詞』

『この3ポイントが決まったら、お前は俺のもの』


 そんな強引なこと云われたいわー、ジャックダニエルトリプルロックをがぶ飲み、夢子は云う。そこに友人の豆子がかぶせる。


『もう帰っちゃうの』


 これどう、うっは最高、女達は理想の男ありきの妄想に興奮を高める。更に夢子が云う。


「付き合っていない関係、でもお互い好き同士なの、それでね、私が先週●●君と飲みに行ったとかって男の子に【わざと】云って、彼がこう云うの」


『ちょっ、俺聞いてないんだけど。誰と飲んでたんだよ』


 なーにー、私って貴方にそこまで云わなくちゃいけない関係だっけー、それともなに、ちょっと私のこと気にしてんのー、キャー! そうしてたいへんやかましい。夢子の鼻の穴は妄想と等しく広がっている。ついで、豆子が云う。


『おいっ』


 え、それはよくわかんない。夢子は正直である。豆子の表情の複雑を無視して夢子が再び口を開く。


「観覧車に乗るの。普段友達と乗ったって別になんもないのだけれど、好きな男の子の時は違う。まず隣に座るか、対面するかで迷うの。隣に座ったらちょっと大胆すぎるでしょ。それでね、締まり切らないドアの隙間に対して怖いー! とか云うの。しかもね、男の子が隣に座ってきたら、傾いちゃうから危ないー、重点がー、とか叫ぶの! 他の観覧車が揺れていたりなんかしたら色々勘ぐっちゃう。頂上にいったらキスしちゃうのかなあ、なんて考えるとさ、もう…」


 キャー! そうしてたいへんやかましい。女の子になったときの女性というのは、感情が沸点に達するのが男性よりもよほど早い。豆子の言を待たず、夢子は続ける。


「まだ同棲とかしていない関係なの。でも、彼の家に泊まった時に彼が云うの」


『ゴミは俺が出すから、お茶碗洗い係はお前な』


 なーにー、ゴミ出しって1週間単位の話じゃない? てことは同棲したいの? 食器洗いなんて毎日の仕事だし明らかに私のほうが損を引き受けているのに、彼は全く気付いていなくて、そこがまた可愛いのー、それに汚いものは男が引き受けるみたいなピュアな気持を感じるでしょー、3日洗わない食器がゴミより汚いこととか、よく分かっていないあたりがすっごく可愛いのー。もう…


「キャー!」


 そうしてたいへんやかましい。されど、夢想をたゆたう女の姿は、それを眺める男をも幸福にする。



女三人寄れば姦しい

 諺の暗記を始めた。屠竜之技と呼ばれようとも、時間があるから仕方ない。この世は優勝劣敗、物書き稼業でやがては泰山北斗と仰がれたいという大ドリーム実現のためには語彙の増加は必然であるように思われるし、或いは当面の新事業においてもクライアントとの商談が主務となるのであるから、その際に曖昧模糊とせず当意即妙にして円転滑脱なる弁を弄することを可能足らしめる語彙の補給は、きっとで有用となろう。さりとて巧言令色に陥ってはならない。知るを知ると云い、知らぬを知らぬと云う、これ知なりという格言にもあるように、いたずらに多弁であるばかりでは、意志が言葉に引っ張られやがては曲学阿世の徒にもなりかねぬ。自家撞着に陥ることは避けねばならない。


 諺に先駆けてひとまず暗記を終えた四字熟語から出来る限りを乱発してみた。たいへんうざったい文章となっている。まあ、傍目八目の意見に任せるとしよう。くどいが、最近物事が何かとサッパリし過ぎているので、反動である。例えば半年ぶりの家系ラーメンは、美味い。


 ところで、諺のほうは今、あ行の最後、『お』まで進んでいる。『女』に始まる諺に目を落としたところで、内容の男本位に驚いて、ピザにタバスコが垂れっぱなしとなった、と思いきやタバスコは振らないと垂れないので、安心したというのが今日一番のスリリングであった。誰かに構ってほしい。以下、それぞれ高橋書店『ポケット判ことわざ新辞典』より引用。


●女賢うして牛売り損なう
女が利口ぶってでしゃばりすぎると、売れるはずの牛も売り損なってしまう。利口ぶる女はとかく目先の小さなことにとらわれて大局を見失い、失敗しやすいもの


●女三人寄れば姦しい
女性はおしゃべりだから、三人も寄り集まればやかましいということ


●女は三界に家なし
「三界」は欲界・色界・無色界の、人にとっての全世界を意味する仏教用語。女には広い世界のどこにも安住できる所がないということ。女性は幼少のころは親に、結婚しては夫に、老いては子に従うものとされ、一生自分が主となれる場所がないという意味で、封建時代によく使われた言葉


 何が間違っているとも思わないし、一定の真理を含んでいるからこそ現代にも継承されているのであろうが、視点が実に男性的である。他にも、男は度胸女は愛嬌とかいうのも、フェミニストの逆鱗に触れそうである。母性を重んじる宗教観があったにせよ、日本社会が常に男性的であったことは、こうして諺にも見て取れる。もっとも別に日本に限ったことではなく、西洋一神教の世界でも、神の性別は男であり、男尊女卑は当たり前となっていた。何せイブは元々、アダムの肋骨である。まったくそういう歴史だったのである。なので怒りを当ブログに帰結してほしくない。こちら、たいへん女性には優しいつもりである。思いつく限り、一神教的宗教観の中で女性性が神に宿るとしているのはカバラくらいのものではないだろうか。聖書と同時期に存在していたとされる(現在では12世紀の書物という認識が一般的)書物ゾーハルには、神を構成する9つの要素の中に女性性も含まれていた。詳細は忘れた。ところで、


●男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く
「やもめ」は連れ合いを失った者、また独身者。独り暮らしの男は、家の中や身なりが不潔になるが、独り暮らしの女は、むしろ身ぎれいにして男たちにもてはやされ、華やぐものであるということ


 こんな諺もある。これなど一見男を揶揄したものにも見えるが、一方では華やぐ女性に対しての嫉妬、僻みの念が感ぜられる。こんな諺がいつ発生したのか、経緯は分からないが、きっと女への当てつけを目的につくったのであろう。


 そう思ったのだが、『現代では特に男に対して用いられることが多く、「男やもめに蛆がわく」と略されることも多い』らしいのである。おれは、その用法が正しいとは思わない。この諺の本質は、きっと男の女に対する怨念のはずである。自虐は単なる前フリに過ぎないはずだ。


 気が向いたら詳細を調べるかもしれない。

サッカーのコペルニクス転回

 クライフがトータルフットボールで一斉を風靡してからはや数十年、高度に戦略化された現代サッカーは、マラドーナやジーコが絶対的であった当時とは質が大いに異なる。ジダンのような異次元の天才は別として、10番が特別視される時代ではなくなった。


 このままシステマティックなサッカーが主流となっていくであろう、サッカー愛好家たちの半ば自明ともなったこの見解、しかしながら、一つ、掣肘を加えてみたい。


 スポーツには、ルールの上なら、何をやってもよいという前提がある。当たり前のようだが、重要なことだ。スポーツは、反則ギリギリを会得することが、強者への道である。狡猾であらねばならない。資本主義と似たようなものだ。


 74年W杯を例に挙げてみる。前の人間は攻撃だけを、後ろの人間は守備だけを考えていた当時のサッカー。今では考えられないフリースペースがフィールド至る所にあった。クライフはそれを逆手に取り、全員攻撃、全員守備、流動的なポジションチェンジを以て相手のスペースを潰しにかかった。互いに受けつ攻めつのどこか牧歌的な、合戦的な試合展開に慣れていた諸外国は、めまぐるしく展開されるオランダのサッカーに実にまったく狼狽した。球と同時に人も動く圧倒的なスピードに完全に翻弄され、準決勝では優勝候補とされていたリベリーノ擁するブラジルもあっけなく完敗した。決勝で西ドイツに敗れこそしたものの、その活躍は今もって伝説的に語り継がれている。クライフは、ルールのもとで出来得る最高のサッカーを、やってのけた。


 オランダ代表のトータルフットボールはその後のサッカーに決定的な影響を与え、それがため高度な戦略性に基づいた現代サッカーであるというのは先にも述べた通りだが、ここに一つ、全く異なるサッカーの方向性とでも呼ぶべきアイデアを、放擲してみたい。それはつまり、スクラムである。


 スクラムとは、味方同士が肩に腕を掛け合い、一つの塊となるあの、ラグビーでお馴染みの編隊である。サッカーにスクラムを応用することで、絶対にボールを取られない攻撃方法が編み出せることには、あのキャプテン翼すらもが気付かなかった。画期的な戦術は、以下の通りである。


 まず、サッカーにおけるスクラムは円陣である。それを、次のように実践する


●10人が円陣を組み、ちょっとずつ相手の陣に進む。球は円陣の中でパスをしながら転がす

●或いは、9人が円陣を組み、ちょっとずつ相手の陣に進む。球は円陣の中心で1人がドリブルする


●別に全員が円陣に参加しなくとも良いので、5人が円陣で球を進め、残りはフィールドに散らばる、といったことも出来る。こうなると、パスという選択肢が増えるため、戦略に幅が出る。
 

 味方同士が組み合ってはならないというルールは、サッカーにはないはずである。まさかするはずがないという、性善説に則った大英帝国のスポーツマンシップ思想がもたらした穴とも云えよう。これが通用するとなると、サッカーの質は全く変化してくる。華奢だがテクニシャンなどという人間は全く不要であり、ボールを奪ってからいかに素早く円陣を組むかが肝要であるから、スプリンターの跋扈が予想される。円陣の密度を高めるための肥満体需要が出てくることも考えられる。


 円陣サッカー普及の暁には、ロナウドもリバウドもデニウソンも、二流の選手となってしまうかもしれない。天才の閃きが現実を突き破る瞬間を目の当たりにすることも、なくなってしまうかもしれない。恐るべき悪魔の発明、デメリットばかりである。しかしながら、一人の思いつきなどというものは、世界の百万人が同時に共有しているのが世の常、もう後に戻ることはできない。

もろこしっこ

 コンビニの弁当は食べ過ぎると体調がおかしくなる、自炊にだらしない花村という男が、彼女に向かって得意げにこんなことを放言する。女は、へぇと云い、スーパーカップのチョコミントを手にしながら、更にチョコクッキーを眺めている。甘い物とフェラチオが大好きの女だそうである。鼻くそさえ食べなければ、どんな女でも良いよ、笑顔でそう云う花村、鼻毛が束となって彼の世界から顔を出している。指摘すると、


「これでいいのだ」


 赤塚不二夫への、哀悼の意であろうか。


 コンビニ弁当。茶色ばかりがおかず欄を占めている。見た目に脂っぽく、食べればいよいよ胃が重い。チベットには死体を野鳥に食わせる『鳥葬』という埋葬法があるが、現代人の肉は食品添加物その他が体内に残留しているため、好んで啄まれないとかいう都市伝説すら生まれるほど、健康の見地からものを云う人の間では、疎んじられている。


 近所に、サンクスというコンビニがある。弁当の質は、低いほうだ。一度、病床の際に焼き肉弁当を食ったことがあったが、体調も相俟ってひどい目に遭った。糞が細切れの下痢となり、肉と同じ色・形をしているのである。事件だと思った。もう一度製品として再出荷出来ると思った。そういうわけだから、どれだけ空腹でも、やすやすと手を伸ばせない緊張感が、あすこの店の弁当棚にはある。ただ、一つだけ安心出来る製品があって、それはマジックパールという味付ゆで玉子である。コンビニが苦心して味付けを研究していないところが美味の秘訣だ。


 鶏とかけて都市伝説と説く、その心は『きみわるい』。黄身は、栄養過多である。ケンタッキーの鶏は肉の歩留まりを良くするために三本脚に改良されているとかいう都市伝説、少し前に流行った。それにしても、不特定多数の人々の伝聞・体験入り交じり練り込まれたこの手の話は、嫌悪や恐怖といった心の暗部を非常に巧みに突いてくる。ネガティブだが、どこかわくわくするような感情に駆られる。


 ところでネガティブという言葉を考えると、外国は死を悲観的に捉えるきらいがある。皆生き残るのがドラマとしても最善という考があるように感ぜられる。日本では、身近の死を乗り越えて一人前になるという物語が人気である。たとえばザンボット3では、最終回で主人公以外仲間が皆死んでいる。ネロとパトラッシュも、外国映画では生き延びているが、原作ではきっちり死んでいる。最近のケータイ小説めいた諸々も、恋人が死ぬというではないの。フィクションの中で死を美しく魅せることに、日本人は価値を見いだしているのだろう。オスカルとアンドレは、それはもう美しく散ったものである。

 
 薔薇(花)とかけて薔薇(ホモ)と説く、その心は、『アナルローズ』。


 意:フィストファックをする人の中には、プレイ中に直腸を脱肛させることの出来る人がいる。大きく脱肛すると直腸はバラの花のように“ひだ”を重ねた形になる。この状態を「アナルローズ」という。             wikipediaより   


 だそうである。

盗作について

 だいたい、人間の本質を突いたような言葉は二千年も昔に出尽くしているのが実際であって、それでもなお当代の作家に価値があるとするならば、それは作家の生きる今この時代の息吹きを存分に感受した作品を生み出すこと、その一点に尽きる。なので、ユーモアなどは積極的に取り入れるべきである。実存主義にかぶれて、いつまでもあのへんのジョークに惑わされていては、いけない。


 と、冒頭からおじいさんだが、何故そんなことを言うのかと問われれば、おれの答えて曰く、


「文語体を知らない人間が鴎外、芥川よりも優れた作品を残せるはずがない」


 のである。口語体にのみ生きる現代日本人は、未来永劫かつての作家に、日本語の美という観点からすれば、勝てないのではないだろうか。ユーモアは別として。というのも、口語体は文末からしてが『である』、『です』、『だ』の三種類しかない。これは、重大な欠陥である。


 酒に滑る筆は垂れ流されるうち文句に流れ着くきらいがあっていけないのだが、先日、ギイ・シャルル・クロスという人間の翻訳された詩を読んでみたところ、実に虎舞竜で、困惑した。虎舞竜といえば、おれのカラオケの馴染みである。盗作でないことを祈るばかりだが、以下、現代語訳して虎舞竜のロード1番の歌詞と並べて引用。


 あの初恋の思い出は
 ハンカチ一つが残ってた (三年前にそれもなる 時の流れの早いこと)
 四五日前のある晩に、そのハンカチも失った
 なんでもないよなこのことが
 思いのほかに身にしみた
 今では遠い恋人よ 私はこれきり見ぬだろう

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ちょうど一年前に この道を通った夜
 昨日の事のように 今はっきりと想い出す
 大雪が降ったせいで 車は長い列さ
 どこまでも続く赤いテールランプが綺麗で…
 何でもないような事が 幸せだったと思う
 何でもない夜の事 二度とは戻れない夜

 
 おれは、重なりすぎだと考えるが、あのジョージが文学作品に通じているのかといえば甚だ疑問であるし、盗作ではないという思いもある。


 いずれにせよ、新しい何かを生み出すことの並ならぬ大事業であること、この例ひとつとってみても、明白である。

聖火リレー評

 他人同士が結託するにあたり最もたやすいのは、共通の敵を発見することである。上意下達の場合にあってはいじめとなり、下意上達の場合にあっては革命となる。


 今、日本人は割と結託しているほうである。共通の敵は、中国である。最近、チベット問題に対する反感が、いよいよ高まってきた。オリンピックを国威発揚の場として利用する中国に、多くの人々が文句を垂らしている。『中国憎し』これさえ唱えれば免罪符、そんな風である。


 厳重な警備に囲まれながら、たまに消えたりしながら世界を巡る聖火。なんと、消えても良いらしいのである。というか、チャッカマンで点火しているじゃないか。聖火でもなんでもない。ただの火。噴飯である。人権を蹂躙しておいて何が平和の炎だと、怒れる気持ちも分かるのだが、考えてほしい。あの聖火リレーからしてがナチスドイツ発案である。オリンピックの政治的利用、プロパガンダの骨頂である。はじめから、価値などないのである。


 とはいえ、プロパガンダである以上、徹底してほしいものである。消えても良い聖火という、設定の甘さ、加えて、チャッカマンへの妥協、あまりにお粗末である。かつて聖火リレーを企図したナチスは、体制を幻想によって、必然性によって維持しようとした。彼らの唱えたのは、ダーウィン主義の恣意的利用に基づく、アーリア人種の優秀性であり、滅茶苦茶だが、彼らは物語の紡ぎ手としては、ずいぶん頑張ったほうである。後世のオカルティズムにも、なかなかの影響を与えた。


 中共が、『中国の永続的繁栄』という物語をオリンピックで示すためには、なによりまず、聖火の神性、不可侵性を全うせねばならなかった。種火はどこぞへ残っていると言っても、大衆が目撃しているのは、走者の手に翳された、あのやつである。シンボルとしての聖火は、いかなる偶然によっても消されてはならない。物語は必然によってのみ完遂されるのであり、その必然を産み出すのは他ならぬ神である。ひとたび偶然が生じるや、物語はたちまち虚構となり、神の息吹もどこへやら、人の手によって練り上げられた偽りの茶番へと堕落する。


 であるからして、中共は点火の瞬間くらい、カメラのまわらない場所で執り行うべきだった。せめてそれくらいの努力は、すべきだった。ギリシャに端を発し、一つの炎が世界を巡り、ついには中国へと到着するという壮大なドラマが、聖火リレーのそもそもの意義では、なかったのか。それを全うできる強烈且つは超越的な力が中国にはあるのだという表明こそが、中国の発展を印象づけるのでは、なかったか。


 今回の聖火リレーは、抗議という外圧によらずとも、稚拙な物語構造そのものからして、破綻している。俗にまみれたこの一連、茶番と呼ぶに相応しい。とはいえこれは、中国に対して、というか、現代文明ぜんたいの退屈に対する文句である。最近、人類のやることなすこと、ちっとも面白くない、芸術と政治と科学の混濁が、まったく世をつまらなくした、と、一人自棄になっている。この文面に至っては、さしたる共感も生まぬ上、いじめにも革命にも繋がらぬ、単なる文句と評するのが、妥当であると、個人的には考えている。


 だから文句です。

calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< April 2020 >>
sponsored links
nekokiの本棚
twitter
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM