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  • 2015.10.23 Friday
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何かいいたくて…夏

 盆を迎え、死んだように布団の中で過ごしていたらいつのまにやら自律神経失調症になったのか、今朝から身体が無重力を味わっている。頭はのぼせたように、思考が蚊とともにぶうんと宙空を漂う。明日になれば、放置しておいた堰もきれて、土砂の如く仕事が私を潰しにかかる。白眼を剥いたまま気づけば翌月、課せられた仕事はいつともなしに奇麗さっぱり片付いていた……、時間を遡りたい気持にこそなれ、飛ばしたいと思ったのは人生今をおいてほかない。


 よほどストレスが溜まっていたのか、悪夢にも等しい明晰夢を二晩続けて味わわされた。顔も忘れた実母との近親相姦と永積タカシのサヨナラCOLERが無限ループで繰り返されるという、それはそれは酷い夢で、ストレスのあまり二日続けてビッグマックを食わずにはいられなかった。近所にマクドナルドができた。


 初日の昼は、ドライブスルーで十五分待たされる田舎っぷりを披露され、出されたビッグマックも具の少ないこと甚だしく、憤慨して食らった。そうして二日目、少し時間をずらしてみると今度は車客が一人もおらず、しかもどういうわけだか図抜けた美人が笑顔で外に立っていて、ドライブスルーであるにもかかわらず、ご注文をどうぞとメニューを渡してくる。出されたビッグマックとて昨日を思えば雲泥、挟まりきらないレタスが箱の中にみっちりと溢れていて、ビッグマックが埋もれているような趣。食えば食うだけ座席が汚れ、これまた憤慨して食らった。クレームでも入ったのだろうか。何にせよ極端な店の変節に私は常ならぬ今年の夏の、狂気の片鱗を見た気がした。


 古い古い白黒映画を観たり、泉鏡花を読んだり、或いは夜店市に足を運んだりと、私として夏らしい、闇にぼんやりと浮かぶ明かりを追い求めるような、そんな心地良い休みを送った。この肉体的虚脱感、精神的浮遊感の中、幽かな冷房を浴びながら窓の外に鳴く虫の音を聞いていると、明日から再開されるであろう喧噪も、まるで別の世界の話の気がする。


 ……上野樹里似の彼女の可愛らしさといったら!


 

ミックス犬

 ここ数日、東名静岡インター付近で子犬の叩き売りをやっているようで、子連れの家族が群がっている。新宿渋谷など夜の蝶の跋扈するあたりに見られる省スペースの犬猫屋とは趣を異としていて、金持ちの中年と愛人だのといった不釣り合いのカップルがワーキャー云いつつ高価な犬猫を夜な夜な購入するなど、さながらアダルトショップの如きいかがわしさに溢れている都内の店に比べて、こちら静岡の叩き売りは炎天の真昼から節操もない汚らしい店構えで矢鱈とガチャガチャしている。買う買わぬに依らず子供がうるさいからとりあえず行ってみるか連休だし、の如き見世物小屋的な要素も強く、娯楽なき地方におなじみの風景である。大いに結構、勝手にやれば宜しい。


 もちろん私は店に入らないが、看板に『ミックス犬』なる言葉を発見した。調べたところ、純血と純血を混ぜた犬から、単なる雑種までを総称して『ミックス犬』と呼ぶらしい。小便を聖水と呼び、糞を黄金と呼ぶ、これはスカトロ愛好の徒が能動的に生み出した愛すべきファンタジーだが、こちらミックス犬に関してはおそらく業者発、押し付けの概念で、こんなものをありがたがる精神を私は決して許さない。我が家にいる犬の雑種もいつの間にやらミックス犬なんぞ洒落たカテゴライズに与するようになってしまった。犬に罪なし、だが呼称を改善することで高級感が増すという発想はこれ、気違いを禁止用語とするにも似た、お上からの差別思想を彷彿とさせる。雑種で何が悪い。ミックス犬。語感にまるで魅力が感ぜられない。ミックス犬。意味が分からぬ。

プラハの冬

 一年 ○○あげは
 一年 ○○あいむ
  一年 ○○ゆ月
 五年 ○○吹雪


  これは何かと云えば小学生の毛筆入選者で、みんな平成生まれの小さな女の子で、華奢な四肢に詰まる性的魅力はたしかに比類ないけれども、キャバではない。文化センターで見かけて、仕事どころじゃないと急いでペンを舐めた。ところで娘の名前で自己主張したいのは母親である。娘はそれを甘んじて引き受けるのが、生まれて第一の義務となる。


  母親はかつて、教室に三人いたうち最も醜い『真理子』で、三人目の真理子だった。


  母親「あいむ、ゆあ、しず、どれがいいかしらどれも可愛いわ」
     I'm, You're, She's (the son of Mariko)


  ここ四十年来、日本人の名前は〜子、〜郎など最後の一字によって括られまた、分類されることが多かった。自分もまた『祐』軍団の一人として、「その字が入る男子ってあれだよね、えっち」それなりの役割を果たしてきた。時代は変わった。


  事実、一年 亀山ザウルス 


『子供を縛る最後の一字を許さない』風潮は、たしかに『子』や『助』の新生児を減らしたけれども、いったいそれがなんとなろう。親の渾身の詩心が披露されている風でありながら、猛烈ないきおいで名前がかぶっているのは、いかにも頭の悪い話である。奇をてらっているようで、ただ新たな名前の流行りに乗っているのだから、このあたり過渡期ならではの見るに耐えない光景だ。第二の真理子は続々と生まれている。  



    



 冬の時分に仕事でプラハへ行った際に撮ったもので、看板にはもぐらのクルテクが日本人女性の財布を眺めて笑っていた。



   



これはおそらくモルダウ河で、自分はこのモルダウと、ジョンレノンのイマジンだけは、ピアノで弾くことができる。




   


  とはいえなんといっても、チェコで見つけた色々の中では、この珍木が一番凄かった。

シンボル

 「新コンビ組んだんですけどなにか名前ください 参考にしたいです!」


 ウェブの海原に漂白する関西援交ファイルを、履歴埋め尽くすほどの熱心で捜索している最中、こういうメールが後輩から届いた。芸人を志す二十代前半の男で、一応大学生ではあるものの、昨年からは学業をまるきり放棄してお笑いに没頭している。取得単位もゼロと、意気込みからして真似をしたくない。両親には何かしら後ろめたい気持ちがあるようで、酒を呑むたび、親に悟られては困る、怒られる、そういうことを云った。


「大学まで行かせてもらってお笑いやりたいなんて通じないでしょう、何せ自分は長男ですよ」


 ヤクザ稼業を目指す割には時代めいた倫理でうるさいものだから、


「親を泣かすものじゃないよ、やりたいことをやるのもいいが義務は怠るな、勉強もしろ」


 たびたびこんなことを云って更に自責に駆らせた。どの口が、実に省みない発言である。ともあれ彼が何らか助言を請うているのは確からしかったので、本当は関西援交のほうに集中したかったけれど片手間に返信した。


「コンマコンマでいいよ、逆読みに定評がある」
「よくないですよ! 笑いましたけど」


 これで笑うの…、こんなにゆるくて芸人が務まるのかしら…。関西援交よりも今はどうやらこの男の相手をせねばならぬ、そんな気がしたものだから、今度は腰を据えて返信した。


「コンビ名には規則性があるから分けて考えるとまとまるかもしれんぞ まずカタカナかひらがなか漢字、ついでに名前に意味を持たせるか持たせないか、これは二人いることが分かるか分からないかってことだ たとえばおぎやはぎ/ラーメンズは、二つの名詞がくっついている/複数形になっている、からコンビと分かるが、アンタッチャブルやロザンはそれだけじゃ分からない…適度に気を抜いたくらいの名前が最善だろう、コンビ名で笑いはとらないほうがいいし、とれない…ダウンタウン、ナイナイ、そういうキャッチーなリズムみたいなものを気にするなら音で考えたらいいんじゃないか 俺は五文字が好きだ、おぎやはぎバナナマン猫ひろし そもそも日本語は五文字か七文字がしっくりくる仕組みになっているんだ 鳥肌実にしきのあきら品川庄司 というわけで


やぎひつじ
サインコサイン
肉野菜
豆林
ボクシンクラブ


 こういう響きがコンビ名にはよいと思うぞ」、とそう送った。すると、肉野菜は嫌だという。自分にしても絶対に嫌である。けれども、相方が太っているらしいのだからこいつも野菜みたいに細いしもう肉野菜でいいよ、どうせ売れないし、万事そういう気持ちだった。ところで何故肉野菜が嫌なのか? これを問うてみたところ、


「だってもしTSUTAYAで肉野菜のDVD出てたらおれ借りませんもん!」


 よく意味が分からない。まあ頼むよと何を頼んでいるのか分からぬつまり何も頼んでいない無内容の文面を最後に投げ、電子問答は終わった。


 こうして再び関西援交していたのであるが、そういえばさっき自分は五七文字が良いと云ったけれどあれはまずい、五七の心地よいのはあくまで詩的な効果、五七は文章のリズムだ、芸名は単語なのだから別に何字だろうが構わない、重要なのはむしろ音のバランス、アクセントではないか…。まったく自分はこれを考えていなかった、そもそも日本語はフランス語や英語とは異なって子音は当然のこと、語尾をもしっかり発音せねばならないから、「ア行」「ー」「ン」のいずれかで終わらない限りにおいては、ずいぶん口をハキハキ動かさねばならぬ…、もし自分の助言をあいつがばかみたいに丸受けしてしまったら、コンビ名には子音が満載の事態になってしまうかもしれない、そうなると、発音の困難に漫才の出だしの自己紹介で早速噛んでしまうのではないだろうか…? との懸念が頭に浮かんだ。


この懸念は記号化すると下記のようになる。


● アクセント
○ 非アクセント

■ 難音(ヤ行、ンを除く子音)
□ 楽音(ヤ行、ンを含む母音、)

□■■■■ 
●○○○○
やぎひつじ

■□□■■□□
●○○○●○○
サインコサイン

■■□■□
○●●○○
にくやさい

■■■□■
○●●○○
まめばやし

■■■□■■■
○●●●●○○
ボクシンクラブ


 思ったよりも規則性が見出せなかったので上記は無視するとして、昨晩はとにかく「しっかりコンビ名を云える」かどうかが不安になったものだから、自分の案出した名前をマイクに向かって小走りの芸人になったつもりで、声に出してみた。


「どうもー、やぎひつじです」
「どうもー、サインコサインです」
「どうもー、肉野菜です」
「どうもー、豆林です」
「どうもー、ボクシンクラブです」


 してみると、全てに噛んだのである。アクセントか? そうではない。羞恥がため自信を失い、唖(おし)のように声が震え、そのため言葉が曇ってしまうのだ。部屋に誰がいるでもなし、況や客の有無である。後輩がこれまでの一年間、どれだけ会場を冷やしたことか知らないが、それでもめげずに笑いの道を究めんとしている横で、自分がこうも堕落していて、良いはずがない。臍に力を込めて、


「やぎひつじです」
「あんた何やってんの」


 母である。今日に至って後輩の芸名は『シンボル』に決まったらしい。

パフュームと女らしさ

 パフュームについて、以下のようにのたまう女性がいたのである。


「そうなんだよね、顔立ちがパーフェクトじゃなくてもたちい振る舞いでこんなにかわゆくなれるんかいこりゃまいったなと感じるね 実際がさつな女が増えたのはなげかわしいよ がさつかロリ気取りしかいねぇのはよくないね うめぼしたべたいな」


 これは、パフュームにはよく見るとゴリラが混じっている、それでもカエラに次いでピノのCMに君臨できたのは、「一番可愛く見」させる距離感を心得ているからである、パフュームはグラドルやアイドルと並列に語られることを意図的に避け、尚且つ個人の資質、とりわけ視覚的な情報を受け手に深く考察させないことに成功していて、せいぜいが髪型オシャレだなやムチムチで美味そうな脚ですなくらいのおおざっぱな記号論的特長を把握させるのみで、そこから先の批評めいた意見の出るほど細かな情報を提供していない、故に受け手も思考停止の境地に留まらざるをえず、そうして暫定的に「可愛い」のである、よくみたらそうでもないが、本質もいまいち見えてこなければ色気を売りに出しているわけでもないから誰との比較しようもないのであって、比べようのない以上は彼女たちは既に自分たちの世界を美をかっちりと構築することに成功しており、その美とは空気、歌や身振り手振りが醸す可愛らしい空気、それが彼女たちを結局のところ可愛いことにしているのだ…、とそんな持論を展開したことに対する彼女の反応なのであった。


 そもそもどうしてパフュームの話になったのかというに、自分は先日とても可愛らしい娘をコンビニに見つけたのであるが、その娘について大いに失望したことがあり、顛末をまずこの女性に語ったのであった。それで、熱のこもるうち、女はがさつではいけない、飾らねばならぬ、挙動に可愛気があるとないでは全く印象が違うのだ、たとえばパフュームのゴリラ似は、とそう話題が転がっていったのである。


 当人のまったく知らぬところで勝手に失望の対象となったコンビニ娘は身長が百五十に満たないくらいの小柄で、年は二十歳前後と思われる。欧米女性の健康的な白さとは異なった、結核でも患っているかと思われるような翳りを湛えた白い肌と、硝子細工にも見まごう華奢な四肢、目鼻立ちのよく整った顔をよわよわしく結ぶ線の薄い唇、それらから相成る薄幸めいた美女である。ありがとうございましたの声の儚いことといったら触れればなくなる雪のよう、事実「あ」から先は毎度消え入るばかりである。一見にして繊細な人形のようでありまた、幽霊のようでもある。


 自分はまったく彼女に心を惹かれた。こってりと化粧を塗った華美で色気のある女性も、運動に肉体のよく締まった健康的な女性も、素敵には違いないが、彼女のような不健康の美を備えた女性には到底及ばぬ。蝋燭に揺れる火のように、或は冬の夜空に浮かぶ氷輪(ひょうりん、月のこと)のように、儚きを以って貴しと男に思わせる女性こそ、まことの美人である。放ってはおかれない、守ってあげたい、そう思わせることこそが男を虜にする第一の秘訣であり、彼女はそういう才能に恵まれている以上、自分はもう彼女を勝手に守ってあげたいのであって、しげくコンビニへ通うことで彼女の愛用する自転車がどれであるかを突き止めた。そうして泣いた。


 彼女の自転車、泥除けには「危険人物注意」なるステッカーが貼ってあり、ハンドルもカマキリなら荷台に至っては背もたれが付いているのである。暴走族の単車を模造した自転車を見て、いかに自分の幻想の誤っていたかを思い知った。偏差値20位の大ヤンキー娘に、知性豊かな幽玄美女の夢を見たのである。コンビニ店員という境遇を、もう少し加味するべきであった。
 

 そうして女性たるもの慎み深くあらねばならぬという憤慨を友人女性にぶつけ、そのうちパフュームのゴリラへと伸びていったわけである。とはいえこのメールの相手こそがまことまことの美女、うめぼしたべたいとか何気ない一言に、酸っぱいものを欲するとはさては妊娠したのかと、不毛の嫉妬に気の触れるばかりである。

肉付きのよい空腹

 一食抜いたせいで腹のあたりに常ならぬ空白を感じる。単なる思い過ごしに片付けるべき宗教的な気のせいなどではなく、現実に質量としての不足の事態であるから、心としてはもう、難民よりもあばらが浮いている。そうして腹を見るが意外にして予想通りの腹毛まみれのかびた餅みたいな丸となっている。


 一食抜くだけでここまで『足りない』思いをする食欲とは実に恐ろしいというほかない。春に秋に爽快な風を受けるたび自覚症状自己嫌悪はなはだしい『禿』とて、空腹の虚脱感には勝てぬ。空腹には実に、圧倒的な欠乏を強いられる。金持ちから貧乏に転落した人はその逆の状況に次いで自殺する傾向にあるとデュルケームが云ったように記憶しているが、きっと彼らも何に貧しさを覚えたかといえばこれはもう空腹に違いないのである。服がない、金がない、車がない、それら奢侈の品々の絶無は、恥辱こそ与えど空腹の如き苦痛を強いることはない。飯を食えないことよりも、縮緬を羽織れないことに絶望して自殺などという雅を忘れぬかぶいた人間、そうそうあるものではない。


 空腹の副作用は酒より煙草より何にもまして人体に影響が悪い。集中力は散り、性格はねじれて攻撃的となり、そうしてえらく身体的に細っているような錯覚までを引き起こすくせに、鏡の中の自分は昨日と全くぶれることのないほどに肉が垂れているのだからそこに至っては幻覚症状も加わる。まったく、外見と内面の最大に齟齬をきたす瞬間とはまことこれ空腹ではなかろうか。眠そうな顔、性的にぎらついた顔、いずれも一目にして感じるところのある臭を周囲に発するが、空腹ばかりは他人に悟られぬ。食物不足に唾液のカラカラに乾こうとも、その悪臭は空腹どころか他人には歯槽膿漏を連想させ、あいつ口が臭いぞの按配、空腹は不幸である。

 
 ですから、その対極にある『満腹』感、これのもたらす幸福度合いも欲と名のつく中で同様に図抜けている。セックスよりも手軽で、何より嬉しいのは質に拘らず量によってとりあえずの快楽を得ることが出来る点である。ケンタッキーでも味わえる安い快楽、食の値打ちは本質的には味覚ではない。食事とは、突き詰めると腹のギッシリ詰まったあの感覚を味わうまでの作業である。愛情や知識のような、いまいち抽象的で掴み所のないものに満たされることに奔走するよりも、食はずっと確実でずっと分かりやすく、何より他人が必要ない。愛情を頂く相手も不要なら、知識を比べる好敵手も不要、ただ肉や魚があればよい。そうして、いかなる他の満足にもまして、実に鋭く幸福を肉体的に感じることができる。猫や小平哲也は飯を食うほか何もしないが、あれなどつまりそういうことである。


 満腹と空腹を往復すること残り死ぬまで、考えても恐ろしい単純作業である。どうしてこんなマッチポンプみたいな生活を過ごさねばならぬのだ。幸福を味わうためには苦痛の伴うこと、これは食に始まりあらゆるに当てはまることではあるけれど、万事にこの調子で一つどころにおさまることなく自分の座標軸をぶれぶれに揺れながら我々生活しているのだから、安定を望むとかいう人間に大人気の指針自体、そもそも摂理に反しているというものである。猫は人様の尽力によってそれを実現させているが小平哲也はいまいちうまくないのであって、あれなどつまりそういうことである。


 朝までに完成させねばならぬ記事を書くための貴重な時間を斯様に無駄に消費してしまうのも、全ては空腹が悪い。コンビニでいちばん茶色い弁当を買って食うのです(茶色は糞の色である前に肉の色ですからね)。

裸で何が悪い

 裸で何が悪いとくさなぎつよしが放言した。酒に酔って人はようやく本音を吐露する。


 性的なものをすべて隠蔽しようとする現代社会は、全裸を認めない。けれども全裸は悪いことではない。むしろ人は裸を欲している。たとえば男。裸の女を求めるほか、どんな楽しみが人生にあろう。女は知らぬ。たまに、セックスに際してこちら着衣のまま貫徹しようものなら途端にふてくされるような女がいるが、あれは全裸が好きというのではない。「私だけ脱いで貴方が脱がないのはズルい」の如きは全く愛情不信声明に他ならぬ。であるから「よしわかった、金輪際俺は服を着ぬ、街中でも着ぬ。だからお前も従いたまえ、市中全裸で徘徊したまえ。お前だけ脱がずにいるは卑怯だ、何よりお前の唱える正義に自ずから反しているではないか…」など弁じたところで、それとこれとは話が違うと反論してくる。裸の好き嫌いに始まった議論ではあるけれど、結局のところ私を好きなの嫌いなの、万事これに尽きるのよ、というわけである。男は口の中でもごもごとするばかり、身振り手振りで察してくれろとはさすがに手前勝手に過ぎるけれども、恫喝されたら逆らえぬのが男の気立ての良さでもあり意気地のなさでもある、兎に角この女からの罵詈雑言を浴びるだけ浴び謝るだけ謝り、帰宅後、女の気も晴れて万事仲直りと思わせた頃に、男の大喝一声、呆気にとられた女を尻目に劇的な速度で別れに持ち込む。恋愛の晩年は、斯様な意地悪の応酬に成り果てること往々である。そうして奈落に落とされた女は、なんで、わかんない、もう一度やり直したい、おかしいって、意味わかんない、ひどい、きもい、音痴、貧乏人、毛深すぎる、など折々に悪口を挿み自己正当性を保持しつつ嘆願するも、男はそのメールに微塵も心動かされることなく、家族と食卓を囲んでいる。のみならず、蜘蛛を殺さんとする祖母を制し手ずから逃がしてやり、己が高徳に感動すらしている始末なのである。そうして、女への優しさではなく蜘蛛救助により突如芽生えた愛護精神によって、メールにも慈悲深い言辞を連ねる。空いたほうの手では当然、鼻くそを穿っている。恋愛というのは、そういうものである。と、「裸は是か非か」の問題がいつの間にやら「私のこと好きなの」の話にすりかわっている。こうやって主題をするする横に横にずらしつ、とめどなく語るそれを指して「ガールズトーク」と呼ぶらしい。


 くさなぎに戻すと、別に裸になろうと法律に触れることさえ当人が気にせぬのなら構わないと自分は思うが、鳩山や和田アキ子がくさなぎを批判するや、気違いの様相で苦情をいれるファンには閉口である。ファン「あなた、くさなぎ君の何を知っているんですか?」


 こいつらは「裸は是か非か」という問いに対して、「くさなぎ君は悪い人ではない」と答えているのだから原爆並の愚かである。前述の論のすり替えに寸分違わぬ。起こっている事実を何ら直視していない。こういうわけのわからぬ倫理心を備える輩に限って、近所の公園で休む上半身裸の中年を性犯罪者などと決め付けて誰より早く通報するの如き差別主義者の素質を備えている。法治国家である以上は、万人は法のもとにおいて平等であらねばならぬのだ。但し、法律以外では平等でなくてよい。美女は優しくされ、醜男が足蹴にされることは、それだけでは法律に触れぬから、贔屓するのは自由である。が、その贔屓が法に触れることがあってはならぬ。


 であるから、くさなぎの罪を擁護するのであれば、裸に正義を認めねばならぬ。裸はいけないことと云うのなら、その時点でくさなぎを擁護してはならぬ。常識とか道徳とか、法律とか、そういうつまらぬものを信じるのならば、彼の人間性ではなく犯した行為を以って断罪せねばならぬ。ファン連中はそこらの覚悟全く欠如している。だからバカにされる。


 全裸になったことよりも三十をこえてなおアイドル、この現実のほうがくさなぎを苦しめているかしらん。

我文語の利を知る

 書きたいことがあるでもないし、ないでもなく、煩悶するうちネットの環境から外れた。ブログ、エロ動画、他人のブログ閲覧、等等、これまで枝葉のように末広がりを見せていた帰宅後の選択どもは実のところ全てがパソコンありきの作業だった。幹なくして枝葉のあったものじゃない。今は日々就寝直前まで読書に打ち込んでいる。部屋にはテレビもラジオもパソコンもなく、積まれた書物はいずれも漢文或は古典、関根さん結婚おめでとうございます。二次会に出られなかったぶん、近々に都合をつけましょう。


 ここ二週間、伊勢物語、平家物語、御伽草子、土佐日記、十八史略、古今新古今和歌集、その他親鸞の教えを説いたもの、世阿弥の著作、樋口一葉書簡集、南方熊楠の著作、等等を読んだ。文語にも徐々に慣れ始め、そうして思う。読解力こそ備われど、習得して自在に操るのは途方もなく困難だ。


 中島らもがエッセイの中で「文語で育った作家には勝てない」と敗北宣言をしていたのを見かけたことがある。芥川を指して、彼の作品は古典からの引用ばかりだと、その独創性の貧困を暗に批判してもいた。芥川龍之介がどうであったかはさておき、中島らもの云う文語の優越性、これは実際にものを書く人なら誰もが感じるところではなかろうか。語彙の量が五倍は違ってくる。マイクロソフトワードでは変換かなわぬような単語が、かの時代には溢れている。ただ、現代にそれらが通用するかと問われれば、それは疑わしい。美に長け趣を備えた麗句の多くは時と共に使用頻度を減らし、きら星と思われたそれらいずれも、今となっては地に転がる石ころと変わるところがない。磨かぬ玉はおのず輝度を失う。ですから女性は常に男性の目を気にして美につとめるのがよろしい。


「その女性は、どんなに美しいのか」
「花は(己を恥じて)春になってもひらくことがなく、月は(己を恥じて)雲間に姿を隠すほどでございます」
「そりゃたまんねえ、朕もパコりとうござる」
「花の色と 匂ひはうつる いたづらに 朕のチンにも 蜜ぞあるべき」
(花(女性)というものは、その美も心も時が経つほどにうつろいゆくもの、帝の性器にも(権力と容姿という)蜜が塗られていますからきっとでその思いは叶うことでしょう)


 古典にはこのような麗しい表現がちりばめられていて、しかしながらこの類が現代に受けるとは思えない。文明の速力はますます猛烈、悠長な人間はたやすく置いていかれるのが我らの生きる二十一世紀である。速度とは文章で云うなら分かりやすさ、この分かりやすさを以って貴しとされる現代に、多義的な和歌を随所に挟んだ抽象的な作品が読まれるかといったら、読まれるはずがない。


 ではなぜ自分が五世紀も十世紀も昔の文学に傾倒し、文語に固執するか。端的に云えば、誰もやろうとしないから、時流を迎合しかねるから、これにほかならぬ。そもそも文語を口語に改めたのは明治以降の作家連で、彼らは言文一致の口語体を完成させた功労者である一方、文語を絶滅させた罪人でもある。彼らは文語を知悉している上で口語を書いたものだから、それはそれは見事な文章を紡いだ。小さい頃に四書五経を読破し漢籍に長け、更には古今万葉に親しんできた彼らと、口語ばかりで育つ現代人、語彙の先細りは自明であって、これではやる前から勝負にならない。


 たとい感性で同等或は勝ろうとも、美というものを意識した場合、明治時代の群雄に比肩することはたいへん難しい。村上春樹の文章は口語体の中では至高かもしれないが、正宗白鳥よりも文章として美しいかと問われれば、自分は容易く首肯出来ぬ。言文一致の口語も書けたはずの樋口一葉がどうして擬古文にこだわったのか、考えるまでもなく、口語では文語に勝る美を表現することができぬという彼女の結論が、あったためである。


 こうして、口語体を創り出した古の賢人たちに恨み節を抱く。勝ち逃げされたようで、どうにも腹立たしい。

心療内科は現代の宗教か

 外部からの衝撃によって脳の組織が破壊されることを脳挫滅と呼ぶらしい。頭を巨大な万力か何かで完璧に潰されたらそれはきっと脳挫滅なのだろう。ところで今、自分は精神的な錯乱によって頭がぜんぜんうまくまわらない。大脳、小脳、脳幹、どれもがまるで機能をなしていないように思われる。昆虫のサナギは、割ってみると中にはただドロドロとした液体があるばかりだが、自分の頭の中もそんな風になってしまったのではないだろうか。思考がぐるぐると渦巻くうちに、本当に渦を巻き始めて、攪拌されてしまったのではないだろうか。ちびくろさんぼのトラバターの要領で、どろどろになってしまったのではないだろうか。ばかが、そんなわけがない。


 鬱病という病気があって、自分は病院へ行ってしまったものだからそう診断されてしまったが、心療内科というんですか、あれは注意したほうがよいように思う。確かに気分もいまひとつなら現実を厭世的に俯瞰しているような節もあったし、加えて大きな精神的動揺がそれに拍車をかける格好ともなった。空いてしまった心の隙間は、それを他が埋めてくれるまでは耐えられぬほどに辛いものである。結果、思考がどんどん沈降し、死ぬとか物騒なことを考え始める。とはいえ、それを指して鬱病と呼んでいいものかどうか。そもそも、鬱病とは一体何だ。


 何故こんなことを考えるに至ったかといえば、薬を飲むことで自分の性質に変化が起きているような気がしたからである。医者の云うには、薬には思考停止を促す働きがあるそうで、あんまり難しいことを考えようものなら脳の焦げ付く前にそれをストップさせてしまうらしい。そうすることで自分を追いつめたりせず、気楽でいられるのだという。確かに、薬を飲んでからは異様な悲観に陥ることもなくなった。ただ、思うにこれは問題の先送りに過ぎず、根本の解決にはなっていない。今まで考えることのできていた事柄について思考の及ばないなどという現状は、むしろ退化ではなかろうか。


 自身の体験から、抗鬱の薬には感受性その他を非常に鈍らせることで『不安』から目を背けさせるところに意図があることを理解した。であるから自分は、もう薬は服用しない。何故というに、逃げたところで、現実は変わらないのであって、薬によってぼかされているものの、不安は常に存在しているのであって、何より、ぜんたいがぼやけることによって今までよりも色々に気がつかなくなってしまっているのである。喜怒哀楽の振幅が実に狭い。感性を自ずから劣化させるくらいなら、自分は意志で現状を乗り越えるほうを選ぶ。そう考えるうち、どうも自分は鬱というほどの鬱ではないことに、気がついた。


 時間がすべてを解決するとはよく云うが、それはその通りで、おそらく時間だけが人の心に安寧をもたらすのだと思う。忘れたいことほど忘れられないものだけれど、日常の蓄積は、どんな記憶をも相対的に縮小させてゆく。抗鬱の薬は、結局のところ時間のそうした機能なしには何らの価値もなく、ただのばかを作る薬でしかない。時間が存分に経過するまでの苦しみから目を逸らさせるために、薬で頭を半分ばかみたいな状態にしておくのが抗鬱薬の役割だと思う。だから、自分なんぞよりもずっと苦しい人こそが服用すべきだろう。あれは、ばかにでもならないことには直面出来ない悲劇を抱える人のための薬だ。


 心療内科へ行って「なんだか人生にぼんやり」みたいなことを云えば誰でも気軽に手に入れることのできる抗鬱薬ではあるが、それというのも偏に鬱という概念の曖昧なところに原因がある。簡単な質問とペーパーテストで心の深部を捉えられるはずがない。心療内科も宗教も、救済を求めるという点においてはあまり変わらぬ気がする。『宗教はアヘンである』とマルクスは云ったが、まさにそのままである。本来服用する必要のない人も安易にあれをばりばり貪っている現代には、底知れぬ暗さを覚える。依存しているという妥協、安心の気持は現状打破をすら放棄しかねないし、そのうち『自分は鬱ですから』のような弱者表明によって、鬱を理由に何事にも甘えようとするかもしれない。拠り所を過ててはいけない。


 今後の予定はしばらく編集作業をこなした後に22日からアメリカへ出張、27日に帰国して、28日に大阪に入り、二郎松田氏の脚本を手がけた芝居を観、さらに翌日には京都を観光となっている。懸念されるのは時差ボケで、自分は割とこれに弱いきらいがあるものだから、せっかくの観劇を舟漕いですっ飛ばしたくはないし、古都を巡るにしても頭の冴えた状態でありたい。いずれにせよ、関西へ赴くまでにはもやもやを払拭させておきたいところ。

嘘より誠実

 難しい場面に出くわした。表参道へと電車に乗ったときのこと、昼すぎとはいえ中央線のぼりは座れるほどにはすいておらず、眠いながらに適当の吊革を掴んで揺られるほかなかったのだが、ふとYUKI似の可愛い女性を見つけたので、そのあたりに立った。横顔が綺麗でしばらく見とれていたが、彼女のほうはメールか何かに夢中のようで、意識をまるごと電話に集中させていた。


 と、中野駅で白髭の立派な一人の老人と、付き添いの男性が乗ってきた。杖をつきつき難しい顔で若者から席を譲ってもらうと、その老人はいきなり、


「私、ペースメーカーしているのですが。貴方、携帯電話使わないでもらえますか、コロッと倒れてもいいんですか」


 そう云ってさっきの女性を脅すのである。彼女は携帯電話の作業に実に熱心に取り組んでいたものだから、急に声をかけられてもそれが自分に対しての言葉であるとは気付かなかったらしく、怖いものを見るような顔で老人を眺めており、胸元にギュッと携帯電話を掴んだまま華奢な身体をたちまち硬直させた。狼狽するばかりで電源を切るとかしまうとかの行動に出ない彼女を見かねて、今度は付き添いの男が、


「危ないって云ってるのでしょうが!」


 車中響き渡る大声で、かますわけである。女性は、やっぱり私だったかの様相で、ごめんなさいを全身で表すように縮こまってしまい、画面の黒くなったのを確認すると、いそいそとバッグに電話をしまって、ペコリとお辞儀をしたのであるが、


「死んじゃったらどうするんだね!」


 老人はよほど怒りが収まらぬと見えて、同じような小言を新宿駅に到着するまで延々と繰り返していた。女性のほうにも何かしら云いたいことがあった素振りのないでもなかったが、『弱者』という立場を表明されてしまったからにはうかつに逆らえぬという雰囲気が広く車両を覆っていたせいもあって、ついぞ一言も発せずじまいとなった。老人が悪いわけではないけれど、ムードにやられた彼女のほうを自分は同情した。


 というのも、ペースメーカーが携帯電話によって誤作動を起こすというのは、全くない話ではないがまず有り得ないのであって、世界中で一つも事例がないのだからその確率たるや実に薄く、最近ではペースメーカー云々の注意書きは優先席の車窓からも削除されているのである。喧伝を始めた鉄道会社からしてみれば、漠然とマナー違反を訴えるよりは、電磁波のような素人には難しい分野の忠告を挟むほうが効果もあがると思ったのだろうが、嘘を云われては困る。不安を煽られるのはむしろ、ペースメーカーの人々のほうであろうから。


 老人はおそらく、携帯電話を見るだけでも心臓が痛いはずである。電波がペースメーカーを誤作動させるという思い込みは電話を見るだけで精神的緊張をもたらすであろうし、実際は何もまずくないのに、あたかも携帯によって心臓の動作を狂わされたのような錯覚をすら起こすかもしれない。人は思い込みによって冷や水を熱がったりするのだから、そういう可能性は大いにあるかと思う。


 電話がペースメーカーに作用する、この過てた情報さえなければ、彼女と老人共に嫌な思いをすることもなかっただろう。鉄道会社側は、半ば定説めいたペースメーカー誤作動について、嘘でした、或はほぼ無関係でしたと人々に知らせるべきだろう。大きな組織にかぎって訂正情報の少ないのは悪い癖だ。我々一般人は、電車内ですら事実無根の幻想によって思考乃至行動を規定されている。別に誰も怒らないから、本当のことを云えばいいじゃない。


 このまま誤作動説が続けば、以下のようなケースが出てくるかもしれない。


●女の子が携帯をいじっている。そこにペースメーカーの老人と、介護人が入ってきた。と、介護人が大声で、「ペースメーカー入ってますから!」老人は、その大声に心臓停止、息の根を止めた。


 この場合、悪いのは誰ということになるのであろう。距離のある程度離れた携帯電話がペースメーカーに誤作動を起こすことは有り得ないというのが研究結果である以上、電話を使っていた彼女に非はなく、さりとて注意した人間の大声が人を殺したとあっては、正義心の空回りとはいえ、哀れにすぎる。何せ介護人は、携帯電話によって誤作動を起こすと思っていたのだから。そうなると諸悪は携帯電話とペースメーカーの関係性を正しく伝えてこなかった鉄道会社にあるような気がしてくる。


 本当のことさえ教えてくれれば、人はそれを受け入れるのに、それを黙って隠しておまけに嘘をつくものだから、恨みや反感をかって、最終的にはわけのわからないことなる。これは、人間関係にも等しい。誠実には、誠実で対するべきだ。

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