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  • 2015.10.23 Friday
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ねのひ

 私は学生時分、左翼活動に没頭する友人の影響もあって反米反欧だった。運動にはまるで興味がなく、書物の上でファンタジーを読み込むように三民主義や矛盾論を楽しんでいたから、結局のところ俗物だったには違いない。なにせ意味もよくわからなかったのである。


 社会人になってから、外国人と触れる機会が増えてきた。挙句、欧米を好み中国を恐れ韓国を嫌うようになった。というのは、白人種はまず仕事に律儀であった。加えて、優雅を極めた時代は過ぎ去り、徐々に国力を削がれる中で一体どうしたものだろうかと憂える日本人と、同じく絶望的な経済危機にどっぷり浸かる白人種との間には通じる心があったからで、黄禍論に対する恐れとはこのようなものだったのであろうかと、亡国の黄昏への危機感を共有できる相手にすっかり心を許してしまったのである。これは、実に頭の悪い人間の変節の典型で、政治的思想は本来このような婦女子的な仲間意識を理由に移ろうてはいけない。所詮私は一度も選挙へ行ったことがないのである。


 中国! インド! くにおくんのドッジボールでもキワもの扱いされていた国が、今や相当に強いのである。ブラジル! サッカーしかない国だと思っていたが、伸張が確約されている。そうして労働力としての中東! 地理も歴史も、いちばん覚えづらい。


 韓国に対しての否定的な感情は、彼らの気質によるところが大で、私は彼らの感性がとても繊細なものであることを信じている一方で、その繊細なところをつつかれた時にとる行動の仕方がいちいち自分とは折り合わないとも信じている。ひたむきさが粘着的に、快活さが激情的に、自尊心が虚栄心にといった調子で、感情むき出しの自我というものをあちらの人ずいぶん平気に曝け出してくるものだから、それらが概して過剰に映る。しまいには鬱陶しい。歴史認識のズレはあちらの教育が変わらない限り永劫解決し難く、実際韓国へ旅行した際には閔姫をめぐる認識で中年の韓国人女性ガイドと私はちょっとした口論となり、果てには印刷は韓国起源と言い出したので北宋発ドイツ大成だろうと一笑に付したところ相当の勢いで激怒されたことがある。金を払って雇って、どうして聞いてもいない歴史認識を客に語り、そればかりでなく強制しようとするのか。まだ学校を卒業したばかりの私は今よりも遥かに攻撃的だったので、正直お前は商売人として本当に頭がおかしいと云った。以来私は韓国人と仲の深まることがあっても歴史問題を避けている。ここに触れると良好な関係が築けない。しぜん、一線を画した付き合いに終始せざるを得ない。


 様々な歴史を捏造、流布する韓国政府の所業、日本も他国も似たようなところはあるが韓国がやはりひときわ一人相撲めいている。国家の歴史の浅さを虚飾によって誤摩化すことがかえって奴隷根性を育んでいることに内部から批判の声があまりあがらないのは奇妙である。レヴィストロースの悲しき熱帯が流行って久しい現代にあってあまりに錯誤的と云うべきか。そもそも『韓国には』歴史があるというのではなく、『韓国にも』歴史があるという彼らの歴史認識


 と、ここまで書いて急に部屋が強く揺れて、静岡は震度五だった。たちまち、私がなぜ韓国を嫌いか、ということを語るのがどうでもよくなった。隣国同士が仲悪いというのは、世界の常である。嫌い合えば良い。


 テレビがつまらないのは韓国のせいではない。



血を吐いて抗す

 世にも不細工な女子高生が私の前を歩いていて、どういうわけか尻のあたり、スカートをまくり上げた。何事が起きているのだと目を丸くすると、その女子高生はどれが目鼻かも判然とせぬじゃがいも面でこちらを振り向いて、あろうことかとても嫌そうな顔をした。アドルフヒトラーがこういう人間を見かけたらきっと列車に乗せたがったはずである。


 今年も帝国劇場にて細雪が上演される。十月だからまだ先の話ではあるがおそらく私はこれを観に行く。ところでブログを遡ってみると三年前のまさに今日、細雪を観に行ったのですと、そんな感想を私はしたためていた。三年前といえば谷崎潤一郎の世界に溺れるあまり破綻をきたして、不安を未来へ先送りすることを助ける禁断の錠剤とピンクローターに依存していた時分、あれからもうそんなに経ったのかと隔世の感を禁じ得ない。その間、私はずいぶん禿げた。いきおいそのままブログをざらりと眺めてみると、随所に今の私よりも練られた言い回しが散見できて、文学一所懸命の可憐な姿を確かにみた。


 当時の舞台細雪の雪子役は壇れいだった。今年は水野真紀である。両者を並べてみるに壇れいのほうが役者としては格上だろうが、より雪子らしいのは僅差で水野真紀か。いずれにせよ雪子にしては両者ともに老けていて、そういえば思い出してきたが細雪の舞台そのものは役者にかかわらず構成が面白くなかった。じじばばあに向けられているから悪しきディフォルメが盛んというか、作りぜんたい粗めで、特にユーモアの手法が甘かったのを覚えている。にもかかわらず何故私が二度目の細雪を味わおうとしているか。それというのは当時、私には彼女がいた。一方で揺るぎない完璧の本命はほかにいて、そのディープインパクトと一緒に観劇したがため忘れ難くなっていて、そのメイショウサムソンが再び私を誘ったとなれば、もはや断る理由などないのである。


 

 

管蠡秘言

 題目の書を記したのは前野良沢という江戸の有名な蘭学者で、解体新書が殊に世に知られる。wikipediaには『世の中には捨ててしまうと絶えてしまうものがある。流行りものはどうでもいいから、廃れてしまいそうなものを習い覚えて、後の世に残すよう心がけよ』こう説いたとある。ときめいた。


 管蠡秘言(かんれいひげん)は四元説を是とし、陰陽五行説を否定する。一に曰く地、二に曰く水、三に曰く火、四に曰く空(空気、風)。ファイナルファンタジーのクリスタルに結実したギリシャ以降の思想だ。中華から西洋へ、という内容となっている。正誤あやしいふりがなを勝手につけさせて頂きながら少し引用すると、


畧(りゃく)説  地球


球は●玉を云う、然(はじ)め支那、古(いにしえ)は地の本形を知らずして地は方にして●局の如しと云い、或いは地下に四註ありと云うなど、虚説をなせり。後世に至って欧羅巴(ヨーロッパ)の天地学をしるに因ってはじめて球と称す……支那は唐虞(とうぐ)以来数国を●めて古より一定の国名なし。「シナ」と云うは欧羅巴及び印度等諸亜の邦(くに)より称する……吾が邦より「モロコシ」と呼ぶが如く、古今の通称なり。故に●を以て称す、欧羅巴とは六大洲の一にして乃和蘭都●洲内に属する國なり。


 といった具合に、虫食い状態になりつつも東洋思想を否定していることはどうにか私にもわかる。全文この調子で、当時の影響いざ知らず、現代人の実学とするにはほど遠い。本作から読み取れる西洋はいずれも科学革命以前で、同時代最新の学説を次々と取り入れていたわけではないらしい。そうとなればイエズス会が中華へ広めた知識を中華の文献頼って接収したとするのが妥当だろう。蘭学のほか雑多に持ち合わせていた西洋に関するいろいろの知識が、批判の矛先たる中華を経由していたというのが本書の面白い点で、惜しむらくは面白さに気付くまでに挫折のポイントが多すぎるのと、やはりかなり面白くないという点、これらに尽きる。私は、興味深いところを網羅するに帰宅から就寝直前までの時間を費やし、それなりに骨を折ったので、読んだ意味がなかったとは云わない。


 ありとあらゆる希少な書物がPDFで保存されているので、また変なものに手を出してしまうかもしれない。

ロナウドとヒョードル

 ロナウドが引退するという。バルセロナ-インテル時代のロナウドの活躍は、スポーツであんなに度肝抜かれたのはエル・ヒガンテ以来というくらい浮き世を離れたショーだった。ネスタやテュラムなど当時最高峰のバックがみな、こけた。独り倍速でサッカーしていた。二度の大怪我を経てキレはかなり落ちたものの、それでも瞬間的なスピードと左右両脚から放たれる怪物じみたシュート精度で頂点に君臨し続けた。


 バルサ時代の自分の次に素晴らしいフォワードという皮肉なレアル時代こそがロナウドの喜劇であり悲劇であるというか、ファンとしては、いつかまたあのロナウドを観ることができるのか? 世界最高のストライカーは確かに今もってロナウドだが、本当のロナウドはこんなものじゃないんだ……、そんな期待を抱き続けた数年間だった。晩年は脅威の大肥満ストライカーに化けてしまい運動量も家猫以下になってしまったが、それでもブラジル国内リーグでは最後まで点を獲っていたのだから、こんな天才は私の存命中に再び出現してくれるかも怪しい。


 ロナウド-リバウド-デニウソンの三人が躍動するブラジル代表は、本当に幸福なサッカー体験だった。リバウドは、貧乏くさい顔つきやO脚の風体が冴えなかったのと、あまりに素晴らしいジダンという選手が比較的似たポジションにいたせいか風化が早くいまいち語り継がれていないのが、かわいそう。デニウソンについて言えるのは、色んな選手を見てきたけれどもドリブルだけをとりあげれば彼がいちばんうまい。


 ヒョードルもまた、引退するという。コマンドサンボを武器に、寝てよし立ってよし変幻自在のスタイルは、スポーツであんなに度肝抜かれたのはエル・ヒガンテとロナウド以来というくらい浮き世を離れたショーだった。思えばヒョードル人気が未だ日本国内できわまっていた時分、かの有名な永田戦後の控え室に潜り込めたのは本当に幸運なことだった。試合後にもかかわらず完璧の無傷で、きれいな顔してるだろ、うそみたいだろ、それ、試合後なんだぜと、ロシア語で言えたらきっと私も出世した。


 全盛期に日本国外で多くの試合をこなさなかったヒョードルが実際のところどれほど強かったのかは今となっては不明だが、そうなってしまった原因は尋常でないファイトマネーと、ヒョードルの商品価値を敗北によっていたずらに落としたくなかった興行側の思惑、この二点にある。客に幻想を抱かせるには実力差のある小物を次々とあてて秒殺するのが手っ取り早い。星を売買する力士共は論外としても、欲しい結果ありきで恣意的なマッチメイクばかり続けるのもリング外の八百長と呼べなくもない。日本の格闘技がどことなくプロレス的な臭いを未だ持ち続けているのはこのあたりの、人工的に最強戦士を作り上げようとする部分に原因がある。K-1の魔裟斗ルールも今考えるとなかなか酷かった。


 世間的な需要はさておき、私にとっては各ジャンルの顔たる二人が抜けるので、何しろ感慨深い。


 

観劇

 メガサイズガンダムとシャアザクを作り終え、ひさびさ外に目を向けると演劇へのいざないがあった。演目はドンファン、スペイン人ドンファンはイタリアのカサノヴァ日本の在原業平と並んで知られる稀代の好色で、古典主義劇作家の雄モリエールのドン・ジュアンが殊に有名だが、そのくせ実在しない。人々の願望を満たすようよく練られた人物は個人の脳みその中で発展を続けるから、なまじつまらぬ人生を送った人よりも後世に残る。


 ドンファンは、散々の女をやり捨ててほうぼうから呪詛にも等しい恨み節を浴びつつしまいには地獄に引きずり込まれる。ごくありふれた勧善懲悪のようでありながら、そうではないと思った。人妻をやたら寝取るドンファンを否定するのなら時間を割くべきは地獄に引き込まれた後、苦しみに悶える姿だが、そうなってはおらず女がドンファンの一言一句に心ほだされ恋に溺れる場面ばかりに情熱が注がれて、結末は実にあっさり描かれている。私はドンファン物語にまつわる時代背景をまるで知らないけれども、恐らくはうるさい当局に対する申し訳としての地獄オチではないだろうか。中年の安らぎたるゴシップ週刊誌が、児童買春の顛末を扇情的に詳述した挙句、けしからん事件だと怒っているフリをするのと似ていると思った。ポーズだけでも良識人ぶっておけば、模倣犯が出てきたところで知らん顔できる。

 
 今回は仮面演劇だったが、表現において『過剰』を理想としない私は、演者の親切すぎる身振り手振りを肉体の躍動ではなくにこにこぷん的な諭しと捉えてしまって、そこまで教えられねばならないほど観客は鈍感じゃないよと興の醒めた部分ややあった。ダウンタウン以降の日本人は、察する能力に関して並ならぬところあるので『次、面白いこと起こりますよ!』とニュアンス的にはこれに近い前フリをされたら、最低でもレッドツェッペリンが乱入してこないことにはまるで納得できない。苛烈な自己責任論は、期待に応えられないオチなら披露しなくてよろしいという非常にストイックな、加点よりは減点方式に基づく現代笑い道にも通低しているので、人間を後ろから蹴り飛ばしたら面白いシーンのような風化した記号論は通用しない。寒気すらする。我々は感性を欺いてまで権威にひれ伏すような態度はとらなくてよいと松本人志に教育されている。ですから演劇には悲劇しか求められないかもしれないというのが私見。悲劇ならば安心して観られる。悲しみは笑いほど時代に左右されていないから。もっとも、今の松本人志はかつてああはなりたくないと自らが否定しまくった人物像にどんどん近づいているようで、何とも言えない。


 ドンファンつながりで恋にかんして言えば、捨てられるほうに悪しきところある場合もままある。ふられる側がいつでも弱者であるとはこれ強烈な思い上がりで、わんわんうるさい蠅にしろ、ただ周囲を飛ばれるだけでどれだけこちら不快な思いをしているか、気がつかない。さよならを言われ失恋に落ち込む人間を励ます楽曲の数はもはや無限に近いが、まっとうな理由から別れを切り出した側を鼓舞する楽曲があまりに少ないのはどうしてだろう。いやミスターチルドレンが歌っていたかもしれない。だとしたら、この説は全部撤回。


 

 



追悼のざわめき

 クリスマスということでなんとなく飯を食ったりする予定になっていたけれども、少し前に友人から送られてきた『追悼のざわめき』が気になって仕方なかったので、映画を観たいからごめんなさいと断りを入れると、バウムクーヘンを一枚ずつ剥ぎ剥ぎ、布団にくるまり本作に溺れた。こういう自己中心的なところは女性に対して最もいけないところなのでしょう。そうかといって、真剣に観たかったので、一緒には、観たくなかった。ところでバウムクーヘンはそのまま齧ると質量がずっしりとしすぎているので、人前でなければ都度剥いて食べる。


 名こそ知れども恥ずかしながら避けていた。この作品は、ちょっと長いのである。『ゆきゆきて神軍』以上に、避けてきたのが途方もない損だと思われた。こんなに美しい映画を観たのは初めてだ。内容は割愛するとしても、しんから感動した。主張ってのは少数派だけが意味を持たせることができるものなのだと改めて思った。清濁併せ持つ人間という因果な生き物をあそこまで臭みたっぷりに描きながらも、美しさが少しも損なわれていないのは神業というほかない。エログロの先にある圧倒的な耽美に、みなさんにも是非触れて頂きたい。正月も近いことだし、親戚の子供が暇を持て余して映画なんぞのダダをこねてきたら、ワンピースの実写版だよと笑顔万遍、この映画を流そう。トラウマは、早いほど良い。


 ところで友人から送られてきた映画の内訳は『盲獣対一寸法師』『HOUSE』『イレイザーヘッド』『追悼のざわめき』で、私はどういうわけかイレイザーヘッドとヘルレイザ―を勘違いしていて、この中にあっては異端だと不思議がっていたけれども、観て納得リンチ監督でした。これら作品言うまでもなくそれぞれが有機的に繋がっていて、贈り物には貰い主が気付くようなそれでいて悦ばしいコンセプトを付帯するのが本当、という理を再認識させられた。まさにちょうど、思春期にこしらえたいびつな感性を満たしてくれるような映画を観たい、さもなければ頭が悪くなってしまうとハラハラしていた矢先の贈答品だったので、これが女だったら百回も告白しているのにと悔しがった。


 異性を好きでたまらないのに、心の琴線に触れてくるのは圧倒的に同性、これは自分のような男のみならず、女性もそう感じるところ多々なのじゃなかろうか。もしそうでなければ、男だけが同性異性の別なく誰にでも優しいということになって、まるで話にならないのだが。

 


邦画 HOUSE

オシャレでおなじみこの映画を観たのは何年ぶりだろう。今改めて見返すと、ちょい役に立派な人が出ている。野外で撮影していながら背景の空がハメコミだ。リアルに魅せるため考案されたはずの演出でわざと明らかな嘘を混ぜる。深夜に感心して唸る。音楽のかぶせかた構成コマ割、映像で笑いを創りたい人はこれに見習うところ多くあるべきだ。ダウンタウンもこの映画が原体験として残っていて、オシャレをキーワードにしたのか(ビジュアルバム巨人稲葉の回、チェックメイト)。


 羽臼とハウスはかまいたちの夜のオチの原型かもしれない。映画公開は1977年とあった。どうりでみんな可愛らしい。この年は私にとって特別で、次いで1984年。印象的な美人が七年おきに誕生している。 ぜんたいこの作中の雰囲気は監督の才能の賜物とはいえ時代のなせる業、閉塞感に潰されそうな現代日本では再現できそうにない。隔世の感がある。たしかに現代人はネットがあるから過去のアーカイブに容易くアクセスできるけれども世間がこういう映画を商業的に受け入れたことを考えると驚くべき文化豊穣期、何せ東宝、時をかける少女の大林監督だ。羨ましい。


 私は、1960年から1980年代の女性の顔が好きで、我が青春たる90年代娘は、カウントダウンTVあたりで懐かし歌謡曲に合わせて渋谷が映ったりするたび度肝抜かれるほど不揃いの林檎で、あの化粧は一体何だったんだ……。

俺のばばあのダチがよ……くっくっ

「東浩紀が三島由紀夫賞を受賞した処女作『クォンタム・ファミリーズ』は、筋書きこそ陳腐だがこれまで多くの作家が描いてきた平行世界を量子論的に解釈したところに現代小説としての大切な価値がある」と言ってこたつにみかんを食らいながら昇天したことに、私が焦らなかったと言えば嘘になる。戦前から存在し続けたその身体は、およそこれ以上には皺の入るべき箇所も見当たらぬという程に老衰していて、知性の光とうの昔に絶えた単なる用済みのように見なされていたからだ、私の中では。そういう人がああいうことを言うから、言葉の重みが俄然ちがった。尿漏れは生理的な現象に留まらず、思考にも及ぶものではなかったか。憤死直前いよいよ冴えた彼女の脳、それに対する私の深い驚き。もちろん嘘には違いないにせよ、だ。


 ばばあは、ある年代から急にばばあになって、それから、いつまでもばばあである。熟女は必ずばばあになるが、ばばあが熟女に戻ることはない。この時間の一方向性こそは人類にとって恐怖の源泉であると同時に、この世界に与えられた唯一の秩序、時間こそが逆説的に人々を狂気から守っている。決定的にそれの存在することを恐れつつも、いざ破綻したらなおのこと恐ろしい。時間を直線として捉える限りこの呪縛からは永劫逃れられない。そして科学が何を証明しようとも、各人により肌の弛緩の程度こそ違えども、今のところ時間は直線的に伸びている。


 ここ最近、老化に関心がある。マルチ商法のセミナーに参加してからの話だ。みながみなサプリやら美顔器やらを購入する中で私は、人の弱みにつけこんで金を稼ぐ人間は悪だが、老化を弱みと受け取り盲目的に恐れる輩も同様に愚かしいと思った。何を一体そんなに焦るのか。掌にどれだけ優しく握ろうとも氷の塊はいずれ解けてしまうというのに。


 クォンタム・ファミリーズは、物語中盤までは面白く読んだ。ところが終盤に迫るほどつまらなくなって、読了する頃にはコッテリとした衒学から早く離れたかったんですとすら思っていた。氏としてかっちりと纏めてきた世界観や量子論的な解釈は面白かったけれども、肝心の筋がそうでもないことに気がついたのが、ちょうど中盤あたりだった。


 氏の小説には行間が足りなかった。批評家としてはそれこそが望まれる姿勢だが、時に小説は舌足らずほどちょうどよい。全文がぴんと張っている必要はなくて、要所に神の一文が散らばっていれば、それでよい。彼の作品には、引用したい思想はあったけれども、引用したい文章がなかった。まさに批評家の書いた小説で、それ以外の何物でもなかった。私は文学とは文章の芸術だとその点変わらず揺るぎないので、解釈できる者が最強ではないのだというのは荒俣先生を引用するまでもなくわかっちゃいたけれども、『動物化するポストモダン』を読んだあの衝撃を超えることは全然なくて、がっかりした半面、安心した。作家の居場所は、文学をこき下ろす東浩紀という大批評家による、ほかならぬ文学畑における大活躍にもかかわらず、まだかろうじて残されているらしいことがわかったから。

 友人より年末旅行の切符とともに送られてきたDVDの中には映画『盲獣対一寸法師』があって、夜中に豆をつまみながら私はそれを心の底から楽しんだ。B級を見るぞ! と意気込んで、本当に直球のB級だったから、実に楽しめた。水嶋ヒロの小説も、B級を読むぞ! そう思えば楽しいのかもしれない。


 けれどもあれに関しては、新品を買って読んだら負けと思っている。村上春樹氏の作品に対しても読むたび批判的だけれども、あちらは買って読まねばならない。

鮪の話

 スペインへ鮪を買い付けに行く友人に聞いた限り、鮪漁は愛護団体が怒るくらいには男らしさを保持している。


 まず、彼ら鮪は巨大なので、水揚げに際しては散弾銃で頭を打ち抜くそうである。身体は大事な商品なので、絶対に傷つけない。うまく両目玉だけを貫通させるだとか、そういう凄腕の狙撃者がいるという。


 ところがそれでも絶命せずにびちびち跳ねるやつがある。その場合、ちょうど眉間の辺りにトロツキー暗殺でおなじみの、アイスピックのようなものを刺す。神経を抜くらしい。


 そうして陸に揚がる。まだ跳ねる奴がある。これを放っておくと、全力で身体を振り続ける熱量たるやなかなかのものらしく、なんと鮪の体温で肉が焼けてしまう。炙り焼きほどこんがりではないにせよ、指で押せばスポンジのようにボソボソとしていて、そのような生焼けは二級品の烙印を押され単価が暴落する。スペインでも、選別の際には『ヤケ』という言葉が通用すると友人は言った。この『ヤケ』を防ぐため、水揚げされた鮪には絶命して体温が下がるまで海水をひっきりなしにかけ続ける。一口に漁と言っても作業は多い。


 『ヤケ』と並んで等級の低いのが、『ヤマイ』すなわち病気だそうだ。鮪をいざ開いて見ると、そこにはガチャピンの腕にあるような無数の腫瘍がぼこぼこしている。まさに病、どんなものか一度見てみたいが、見たが最期二度と食えぬようになる気がする。そんな恐ろしかろう腫瘍にもかかわらず人間が食っても害はないため、これもまた安価にて売買、末端の百円寿司あたりに売られる。単語とはいえ日本語が通用しているのは市場を支配してきたのが我々だからだろう。


 欧州では養殖が盛んで、ただしそれらは近畿大学の成功させた卵からの完全養殖ではなく、稚魚を海の一帯にて飼育する形、完全養殖はコストの苛烈に今の所採算の目処はたっていないという。

 
 私は静岡生まれにもかかわらず白身魚派なので赤身の美味なるを大して解しておらず、中トロ以外を好まないが、経年に胃が弱ればたださえ濃厚すぎて好まぬ大トロは言わずもがな、中トロにも見切りをつけ、鮪そのものを食わなくなる気がする。但し鰹の美味いのは美味い。赤身としては鰹のほうが美味い。


 刺身で食うのなら貝や白身のほうがずっと美味いのに、盛り合わせには必ず鮪が赤々としている。半ば義務的に鮪を盛ってくれなくとも構わないよというのが私見だ。海外の人々が刺身即ち鮪の観念をますます強めてくれることを願う。鮪だけ食っているうちは、私は勝手にしろと思う。他に手を出し始めたら、私の食べる刺身の質が落ちる可能性があるので、それは嫌です。


 もしここに嘘が書いてあるとすれば、それは友人の話が嘘だった。

 


桜は咲きながら散りゆく

 殊に女性において美とは比肩するものなき才能で、他には学力や運動神経、家の階級、ユーモア、感性、色々あるが、わけても貴いと私は思う。これが一番評価される。異論は認めない。瞬間的な収入を考えてみれば、美を売り物に風俗業界へ入る生娘たちは、医者やそこらの社長にも劣らず稼ぐ。肉屋で働く娘がただ美しいというだけで国王の側室に入ってしまうのが世の実際、これを才能とせずして何としよう。


 先に挙げた中では、美と運動神経は肉体的特権に属する。どうも我々は、精神より肉体に優越性を求めるきらいがある。客観的評価は銭に求めてみると易しい。たとえば一流アスリートの給料は、トヨタの社長よりも高い。日本を代表するトヨタの社長よりも、日本人を代表して野球をしたほうが銭になる。どうしてか。それは旬の短いためである。


 運動選手や美人は、非常に早い段階での諦観を求められる。有り余る才能に満ちていたはずの身体に、三十路も半ばとなれば恐ろしい速度で劣化が蔓延する。諦めきれるのか? 周囲のセッティングによる涙のヒーローインタビューが必要だろう。自らの意思で才能を放棄するなんて、並大抵のことではない。美人の場合、それはさしずめ結婚となろうか。


 ところが、やはり美の持ち主はそれを喪失したくない。当たり前である。世間では近年、美の敷居を下げることで、みんな美しいよねという方向に進まんとする風潮がある。アラフォーでもこんなに美人、といった具合。励みになるとかならないとか。しかしちょっと考えてみましょうか。


 そもそも美女美男の宝石たるは、その比率の稀なるが故、である。一山いくらの大衆の中にきらきら光る女一人、それがいわゆる美しさ、価値の源である。どんな不細工でも、顔というのは一つの作品だから、それぞれが何らかの公式によって導きだされていることには疑いなく、個々を眺める限りにおいては、それは調和のとれた顔をしている。全員がそうだ。けれども、公式がややこしい。美を備える人の公式は、簡にして潔というか、E=mc2にも似た優雅を醸している。ですから、百人の顔を並べた場合、真実の美というものが果たして何であるかは教えられたわけでもなし、定かならぬけれども、どうやらこれが正解らしい、という顔が傍目にいくつか浮かんでくる。


 そういう優れた構造の顔面が、各世代に存在していて、美人と呼ばれる。で、美容に関するいろいろの発展した現代では、四十路を超えてなお美しいという人間の台頭を、かなりやさしくしている。確かに美しい人もいらっしゃる。けれども、私は男性であるから、年増を贔屓目に見ることをしない。美とは相対的なものではないので、当然、美熟婦人と新垣結衣を比べて、そうして、後者をとる。当たり前である。美人美人と前三十年もの間にさんざ褒めちぎられた人々の延命運動に加担したくはない。そんなものは暴力であり、純粋美を求める私にしてみれば、まるで自然ではないから。強制される美は、美にあらず。本当に美しいものに対しては、言葉などいらない。今時分の毛皮のマリーに美を覚える人があるならば、それは過去を知る者、ノスタルジーの所産だろう。二十年ぶりの同窓会で初恋の人に再会、確かにくたびれてはいるけれども、思い出補正は誰より美しい彼女、というごく主観的な虚像をにわかに作り上げる。色眼鏡とは往々にして、経験の引用だ。


 ばばあの垂れた乳の美しさだとか、美という概念を押し広げたらたしかに美はあらゆるところに散見することができよう。けれども、それかといって美の敷居を低めてゆけば誰もがその恩恵に預かれるというわけでもない。美醜の区別の厳しくなされている世に生きてこそ、美は評価される。年増が美人であることを主張し続けるのは、既得権益を手放したくない役人に似ている。『美』なる観念を未来に存続させるため彼女たちは生まれてきた。同世代に対して、美とは私であると、好む好まざるにかかわらず主張してきたのが彼女たちである。当人の思っているよりずっと広い範囲の男、それは他校すらをも含む、が彼女たちによって思春期のくすぶりを起こし、妻子を持った今も尚、心のどこかに初恋を置いてある。そのようにして美は当事者を元に伝播し、いやあ奇麗な人っているものですな、とこういう認識を植え付ける。もし世の中から美が失せれば人類の日常はマンネリズムに覆われて酷いことになる。美こそが人類のモチベーションである。いったんなくなったら最期、あらゆる芸術は主題を喪失し、芸人はネタ作りを放棄し、大衆はセックスを疎んじる……。


 ……私は美の体現者ではなく観察者であるから簡単に言うけれども、匙を投げても良い時期ってあるだろう。美を備えてきた人は、それを捨てるなんてとんでもない、とこう主張するのだろう。けれども、代わりもまたいくらでも後から続くから、いつまでもきばって体現者でいる必要はないのに、と観察者たる私は考える。いくつになっても美を追求する、この姿勢は何も間違っちゃいないが、これまでと等量の喝采を浴びようと躍起になるうち、知らずサイボーグになってしまった人々を眺めていると、それは強靭な精神というよりはむしろ才能としての美にいつのまにか己を支配されてしまったような本末転倒ぶりが際立つ。


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