スポンサーサイト

  • 2015.10.23 Friday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


こころのじゅんび

一、用意周到の男


 会社一用意周到な男が頼まれたのは中国企業への海外送金だった。初回取引ということもあって先方からD/P(documents against payment)を求められたのである。


 昼間の地方銀行は、各社経理風情を相手にするCDの自動音声案内で大いに賑わっていた。みな、行儀良く並んでいる。係員に海外送金の旨を伝えると、順番すり抜け直ちに通される。各窓口担当みな容姿ろくでもない中、マスクこそしているものの明らかに若く美しいであろう女が応対した。こちらに御相手様の御口座等を御記入下さい。いびつな敬語も艶やかに聞こえる。書類に伸びる指のしなやかさに息を吞んだのも束の間、


「しまった、判子と送金先の書かれた書類を会社に忘れてきてしまった。急いで戻りますので、海外送金をするという心の準備だけはしておいて下さい」


 深刻な声でそう云い残して去った。女は眉間を貫かれたような感覚に表情が強張るのを、どうにかマスクで隠すことができた。


(心の準備、か……)



二、対面の男


 女がデスクに戻ると、対面の若い男がにやにや顔で話しかけてくる。


「」
「うん……」


 この男がにやにや話しかけてきたらきっと面白くないことを分かっているので、いつでも聞き取らない。殊に今は、さっきの客が残した言葉がどうも引っかかる。心の準備だけはしておいて下さい。はいわかりました、でもお客様も書類の準備はお忘れなきよう。


「……全然駄目。だって……」
「そうかダメか。なんだ、どうした俺の顔そんなに見つめて。……!?」


 女の視線は、にやにや顔の男一点に注がれている。男の顔がみるみる真剣になってゆく。けれども変化には気付かない。さっきの言葉の本質が何であるのかを解明することに一杯で、視線を置く先を考える余裕すらなかったのである。ボケても冴えなかっただろうけれども、阿呆みたいに硬直したさっきの態度もたいがいだった。心の準備だけはしておいて下さい。これに対する最善は何? 考えるほど、いよいよ難しい。



三、勘違い


「でも由佳子、意外とああいう男が好きなんじゃないの?」


 席に戻った同僚に対して、にやにや男が開口一番放ったのはこういう台詞だった。ところが由佳子は全然駄目と云い、だっての後を濁すと、悩ましい瞳でじっと見つめてきた。沈黙こそ真実を雄弁に物語る、そう思えば由佳子の態度から推察するには、だって貴方のほうがいい。これしかないように思われた。美人の予期せぬ打ち明けに、にやにや笑いはぴたりと止まって頭の中では早速妻になっていた。


(心の準備、か……)



四、大団円


 二年後、にやにや男は晴れて由佳子を嫁にした。






 
 
 


 

恋人と読みたいクリスマス掌編

 次郎太が中野へ戻ったのは、約束を三時間も過ぎた午後十時のことだった。常より明るい駅前ではあるが、クリスマスイブということもあってこの日は赤と白との電飾が殊に鮮やかで、恋人たちの瞳をきらきらと輝かせていた。人混みを掻き分け路地裏の飲屋街を抜けると、人気もまばらに風がいっそう冷える。五分も歩くとようやくアパートが見えた。再三のメールや電話にもかかわらず何の返信もない夢子の態度から、もしや怒ってどこかへ行ってしまったのかしらんとする次郎太の心配は、二階建てのアパートのうち角に位置する自室の照明が落ちているのを見るといよいよ高まって、彼を一層焦らせた。


 築五十年、鉄製の階段が次郎太の駆け上がる速力にぶるぶると震えながら、喧しい音をたてる。あまりの激しさとその速力にアパートの住人の中には、誰かが上から転んだのではないか、そうしてそれが女性ならサンタの贈り物に違いないと期待まじりにドアを開ける輩すらあった。


 果たして次郎太がドアノブに荒々しく鍵をねじ込み扉を開けると、夢子の靴はそこにある。履き込んだ内側が黒くなっているから見苦しいというのもあって今年のプレゼントは靴にしようと思うに至ったいつものヒールである。細い廊下が三メートルも続くと引戸の向こうに八畳間がある。次郎太は電気をつけてもまるで人の気配のないことに不審を抱きつつも、寝ているだけかもしれないと一旦は解釈したが、それでも引っかかるところあって台所の包丁に手を伸ばした。冷えたビーフシチューの入った鍋、シチューを盛るための大きな白い皿が二枚置いてあって、これは二人で食べるはずだったのにと早くも泣けてきた。次郎太の想像は万事につけて悲観的な方向に及ぶのが常で、彼の中ではもう、夢子は引戸の向こうに惨殺されていることになっていた。


「今、日本にいるの?」
「オー家ー」


 電気をつけ、戸に手をかける。勢いをつけるためにと叫んだのは、二人の昔のメール問答。そうして次郎太は腰を抜かした。部屋の真ん中に大きな木棺が圧倒的な存在感で君臨している。ちゃぶ台には見慣れぬ鍵があって、どうやら木棺にかかった南京錠をこれで外すらしい。あからさまに死と直結した装置の登場に、次郎太の禿が進行した。


(仕事が遅くなったからってこんなことあるかよ……)


 次郎太は、恋人が殺されたらしいと警察に連絡を入れてパトカーの到着を待った。十分としないうちにどやどやと四人の警察が現れて、救急隊も二人駆けつけた。ただならぬ騒ぎに隣室そのまた隣室更には階下の住人までも、部屋の入り口に押し寄せた。


「帰宅したら木棺がありました。僕はまだ中を見ていません、辛すぎてみることができません……」


 何故木棺があるのか、何故通報者は開ける前から死んでいると断じるのか、犯人はこいつではないか、何故警察がいるのか。抱える不可解こそ次郎太警察見物人で三者三様だけれども解らないという共通認識がアパートに不穏の空気を醸す。いよいよ警察が鍵を開けると、中の女と目が合って、思わず叫んだ。死人と思ってその実生きていたら、その恐怖は逆の何倍ともなろう。ついで、夢子も叫んだ。次郎太は、何が起こっているのかさっぱりわからなかった。


 夢子の強い口調のもと、警察と救急隊は帰らされ、住人も警察に促され、蜘蛛の子の散る如く次郎太の部屋には静寂が戻った。夢子は、次郎太の再三の言葉にも拘らずわあわあと泣くばかりで布団から出てこない。


 ……この日夢子は、かねてより計画していた次郎太へのプレゼントとして自身を装飾したのであった。こう言ってしまうと安い風俗のようだが、金のかかりかたといったら並ではない。まず己をおさめる箱だが、これは棺桶屋の提案が気に入らなかったので知り合いの家具デザイナーに作らせた。通常棺桶にはセンという北海道の広葉樹が用いられるが、夢子はそこまでやってしまうのは不謹慎だと考え、何より棺桶屋の言う材質が気に入らなかった。話を聞くにつけ、どうやら棺桶というのは無垢材ではなく、芯には安い材料を使って、表面にのみセンの化粧材が貼付けられているつまりハリボテらしいことがわかった。これでは重厚感どころか、人間というのは死に際しても虚飾ですかという猜疑が生じるばかりである。そもそもセンの、タモのようなケヤキのような判然とせぬ無個性な木目も気に入らなかった。だから夢子は、腕の良い職人に胡桃の木を素材としてオリジナルの棺を作らせた。オイルやウレタンでは高級感が出ないとわざわざ高価な鏡面塗装までを施して、総額三十万の高級家具である。


 次いで全身の無駄毛処理をエステにて行い、その肌をより美しいものへと磨き上げた。美容院では髪をしなやかに、サロンではネイルをつやつやにして、頭から爪先までぬかりなく整えた。そうして、書家には次郎太の傾倒する伊勢物語の筋を生肌の上に走らせるよう命じた。これは人間が口に含んでも良いたぐいの塗料で、夢子はこそばゆい筆遣いから長い夜のことを期待して早くも身体が熱くなった。


 さてこうして装飾は完成した。棺の内側には深紅のヴェルヴェットが張られていて、そこにおさまる夢子の身体はあたかも薔薇に包まれているかのよう。肌の上には淡い墨色の恋歌が連なり、ふわりと横たわる黒髪が電灯をうけてつやつやと輝く。


 夢子は、是非ともこの愛を次郎太に受け止めて欲しかった。次郎太がこのような要求を出したことこそなかったけれども、この悪魔的な美に、ナルシシズムに溺れて欲しかった。ところがいざ文字通り蓋を開けてみたら眼前には警察がいて、何人もいて、奥からは救急隊員が顔を覗き込んでいて、次郎太は、泣いている。無垢材で作り上げた棺桶は遮音性抜群で、外部に起こった一切は夢子の耳に入らなかった。階段を駆け上がる音も何もかも、いったん友人に錠を下ろしてもらってからはさっぱりわからなかった。


 そうして夢子は、警察の叫びに思い描いていた一切が破綻したらしいと気がつくと、唯美猥雑の世界から現実に頭が戻って、自分の姿がパイパンに全身恋歌の気狂いであることにハッとして、羞恥に叫んでたちまち泣いて、それ以上に次郎太の鈍さと小心とに深く失望した。こんな惨めもあったものじゃない。


「許してあげるから費用ぜんぶ払ってあと婚姻届明日出して」


 次郎太は体重八十五キロの巨女のセンチメンタリズムの暴走に対して、僕は君の形より心を愛しているからこういうことはしないで、とは言えない男だった。そうして総額五十万円と残りの人生を夢子に費やすことになったが、結ばれることは彼にとっても幸せに違いなかった。

俺の女が見知らぬ男の軀を泳ぐ

 ――ここ数日、俺はいやに生々しい夢を見る。俺の女が、顔も知らない男の軀を泳ぐ。波打つベッドは二人の淫らな飛沫に濡れて、部屋に立ち籠める甘い臭気に俺の心は居酒屋檸檬のようにぎゅうと絞り上げられる。お前は、俺の眼前で一体何をしている!? そうして毎朝、気違いみたいに錯乱しながら目を覚ますと俺は、テレビも点けずに黒い液晶に映る己の眼(まなこ)を凝視して、腹の底から低く呻く――


 ハ ワ イ サ イ パ ン


 俺は海外旅行でハワイとサイパンへ行く奴を心底軽蔑する。こいつらの思考の惰性は見るに耐えない。抜けた青空、紺碧の大海、ヤシの実ジュース。これら求めて少しネットを詮索すれば、遥かに素晴らしい常夏の島なぞ世界に数多あるというに、みんなが行くからハワイ、有名だからサイパン。ばかじゃないかと思う。でも、俺も行きたいハワイサイパン。浜辺に生える(浜辺に樹木があるのか?)椰子の木にもたれながら、燃える夕陽をサングラス越しに眺めて、青みがかったトロピカルコックテルをストローでちょろちょろ、(今夜はこれからマイケルジャクソンそっくりさんのディナーショーだ……!)そんな休日を心底欲する。さしずめ隣に座るのは、夢に出てくる俺の女。ただしあいつは生意気だから、俺が椰子の木にもたれかかれば「こんなに細くっちゃ貴方でいっぱいね、私は向こうのハンモックに寝そべってくるわ」なんぞ生意気言っちゃって、往来の騒々しさにふとハンモックを見遣れば、驚いたことに初見の白人サーファーにアナルを舐められているところだった、なんて破廉恥もなくはない。あいつは元来そういう女だ。


 ……解せないのは、その女は彼女に違いないのに、肝心のそういう女が俺にはさっぱり見えないことだ。夢の中にのみ生きる彼女、ということになろうか。しかしそのくせ逢うたびあいつは他の男に股を濡らしている。なんという阿婆擦れを夢想のうちに宿してしまったことだろう。確かにあれは美人で、まず俺の知る限りでは相当の女だ。肩より長い黒髪の細やかさといったら広重描く春雨よりもさらさらと、されど男にまたがり始めれば頬と言わず唇と言わず、汗滲む純白の柔肌にべったりはりつくしどけなき黒絹、これ見るも妖しき色魔の相。生まれつき潤みがちだという瞳は、今にも房から溢れんとする枝豆の半身を見るかの如きぱちくり具合、鼻の主張甚だ少なく、赤く熟れた唇は端に黒子のいかにも男をくすぐる、齢およそ三十路の名も知らぬ、しかし間違いなく俺の女……。


 性格は、知らん。が、容姿ひとつとってみても、あれはきっと性質矮小の俺だけに満足できる類いではない。軍神カエサルをすら狂わす一代の魔女と見るが自然だ。


 このふざけた夢を見るようになってから、どうしてか俺は過去を後悔するようになっていった。もしやこの女は、まかり間違えば本当に俺の女となっていたかもしらん? 本能は、それを伝えるべく夢を間借りしているのかしらん? たとい挙句の裏切りであろうとも、こんな女を抱きたくないといえば男子一生の嘘となろう。堕ちるべきところまで堕ちても構わない。どん底も頂天も知らぬ平々凡々に埋没するこそ哀れならんや。現実味のすっかり落剥した『あるべき俺の姿』といういわば虚像、この夢をさんざ見るにつけいつしか『思念上の実像』とは相成った。


 取り返しようのない過去というものがあるのなら、つまりこんな女をものに出来たかもしれない機会がこの俺にもし与えられていたのなら、果たしてどの瞬間であったか? 知りたくて知りたくて俺は、精神に破綻をきたして会社を辞めて後、夢を見ることに日の大半を費やした。眠るたび、あの女はやってきて、そうして、浮気をして、去ってゆく……。勃起もしないセンチメンタルに俺の心はいよいよ虚しくなっていった。


 貯金を切り崩すうちパチンコをやる金も尽きて、ゲーセンの麻雀ファイトクラブに日の大半を費やすようになっていた時分、奇怪な現象が俺を襲った。この麻雀ゲームは、アガると龍が降臨して派手な演出を見せてくれるのだが、俺はその時トイツ狙いでいくもヒキの弱さに流局近しと絶望していた。その時、ふいに天から世にも幼女らしい声が降ってきた。


「貴方はチーマンを選びます。宜しいですか?」


 実際、俺はチーマンをタッチパネルで捨てるところだった。しかし一体この声は何だ? チーマンを選んではまずいのか? しかし一旦そう言われると、牌を変えるも気味悪く、結局俺はチーマンを捨てた。挙句流局。すると……


「ビカーン! 四暗刻ドラ12」


 眼前に、幻とは思われない風景が突如として生じた。そうして驚いたことには、場面がチーマンを残した直後の俺にうってかわり、そこからの局が二倍速気味に展開されるではないか。見ればトイツを狙っていたはずだのにそこから拾うわ拾うわで瞬く間に三暗刻、ラスツモではなんと驚きのトンを引き、アカギも戦慄の自力四暗刻しかもドラ12(無意味)を達成した。


(これはまさか、俺の渇望していた、『選択次第で幸福にもなり得た瞬間を、事後的に教えてくれる神の光臨か!?』)


 事実、そうに違いなかった。というのは帰途、ぶらり立ち寄ったバーにてバーボンを頼むと、再び天啓、


「バーボンですね?」


 また来やがった! 同じ轍は踏むまいと、俺は今度はカルーアミルクを選んでみせた。ところが神の野郎、一体何を見せてくれるものかと楽しみにしていた俺をさしおいて、刻々と時間は経過、結局俺は古着屋の店長とラングラーの生地についてつまらぬ話を繰り広げ、自宅に戻った。すると再び眼前に閃光。


「へーえ、その年でバーボンなんてキメちゃうんだ、やるじゃない。え、私!? こう見えても一応IT系の社長やってるの。女だからって見くびらないでよね、乳首はピンクなんだから。でもさ、ヒルズの男は全然ダメ。頭が良すぎてセックスにオムツを要求するような男ばっかり。え、何それ! 実は私、パイパンなの……♡」


 といういきさつと共に、糞汚い荻窪六畳一間の俺の家にはふさわしくない妙齢の色気をそなえた女性が、オムツを剥いで無毛の局部を俺に舐めさせている。……そういえばあのバー、独り酒をする美女がいた! バーボンを頼むなり、おやとした瞳で俺を覗く、美女がいた!


 ……この神は後悔しか生み出さない。けれども、それかといって神には違いない。何せ、二択でいずれかを選ばねばならぬ時、常人では知り得ないパラレルの現実を垣間見せてくれるのだから。そうしてこれこそ俺の望んだ神に他ならぬ。未来を教えてくれなくとも良い。その場その場の選択が、かくも夢に溢れている、これほどまでに刺激的な神の、これまであったことだろうか!?



「あなたは、この記事を読んでコメントしませんね?」


 

 

姫と大工

 常より作業服で町を歩くことを躊躇しない家具職人の杢深志(もくふかし)が、場違い感甚だしくも先週から由緒あるソクナッハ家に小汚い姿で出入りしているのは、ソクナッハ卿が娘のルベータのため特別に作らせた大型棚を据え付ける責を負ったからである。


 この棚はウォールナットの無垢材から作られていて、木目を潰さないオイル塗装がアンティークらしい落ち着きを与えている。中央に据えられた1枚1メートル、2枚で2メートルもある大きなオープン扉はガラス製で、内部で物を支える計4枚の棚板もすべてガラスである。棚の内側、上部と左右部に埋め込まれた照明を点すと光を受けたガラス棚が乱反射をするような案配になっていて、きらきらと踊る光には一種幻想的な趣がある。


 斯様な素晴らしい棚がルベータの部屋の巾3300、高さ2400、奥行600の凹み壁にすっぽりと収まるよう作られたはずであったが、棚のほうが大きいのか或いは凹みが小さいか、うまく入らない。棚を作成したのは深志の師匠にあたる神業の持ち主で、彼はソクナッハ卿に云われるがまま完璧なものを作り上げた。にもかかわらず棚の入らないのはソクナッハ卿の失敗で、つまり壁の巾3300に対してきっちり3300巾のものは入らないということをソクナッハ卿が理解しておらず、ぎちぎちの寸法で発注をかけたのである。。深志の師匠は今回の仕事に関して現場の実寸を把握しておらず、もし壁の巾が3300であると知っていたならきっと彼は3295程度で巾をキメてきた。据付式の家具は、逃げを確保するのが通例である。今回その確認をしなかったのは、深志の師匠の手落ちと云えばそれまでだけれども、一介の職人如きが容易に口出しするに能わざる高貴な相手であっただけに、綿密な打ち合わせをさせて頂きたいと申し上げるも畏かった。そういう事情もあって、指図されるまま作るほかなかったというのが真実に近い。棚が入らないところをなんとかうまく嵌め込んでくれとソクナッハ卿がわざわざ師匠でなく深志に話を持ってきたのも、己が不手際を当人に知られたくなかったからであろう、完璧な仕事をしてくれた人間に対して直せと云うのが申し訳ないというよりは、自身の無知を晒すことに抵抗があるらしいことは、深志への報酬が破格である点からも察せられた。これにはきっと、口止め料が含まれている。


 さて深志はそういうわけで家具の据付作業にかかったわけであるが、凹み壁の寸法を測ってみると、手前は確かに3300だが、奥部にメジャーを当てると3294しかない。奥へいくほど壁が狭まっているというわけである。こうなると深志は最低でも、左右を4ミリずつ程度は削らねばならぬ。師匠の作品の完成度を崩してはいけないから、カンナと目の粗いヤスリのみを使用して、日数にして10日間もかかろうか、兎に角じっくりと進めることにした。


 朝から晩まで根気強く作業に打ち込む深志の様子を、ルベータは度々見物に来た。ルベータは今年で14歳、詩歌とピアノに抜群の才を見せる色白の美しい娘で、屋敷の中ではいつも膝まで丈のあるワンピースを纏っていた。大理石貼りの廊下にコツコツとヒールの音が響くと、ほどなくしてルベータがやってくる。


「私、煙草を吸っている人って嫌いよ」


 深志は、休憩の合間に煙草を吸うのを常としている。ルベータはそんな深志を見つけるたびいつでも同じことを云うのであった。家族に煙草なんてものを吸う人はいない、それは口臭と混じってとても臭い煙だわ、こんな風に深志を詰(なじ)るルベータは、しかしながら嫌味ったらしさよりもむしろ愛嬌と意地悪の入り交じった嗜虐的な表情を浮かべているように深志には見えた。


「煙草がお嫌いでしたら今は私に近づかないほうが……」
「あら、私煙草が嫌いなんて云っていないわ。煙草を吸う人が嫌いだって云っているの」
「それではすぐに消しますので……」
「あら、私に嫌われたくないからってそんな風に従順なのだとしたら貴方って相当のロリコンね」
「どうも……」


 ケラケラと笑いながら、ルベータは右の小指を鼻に運ぶと、おもむろに鼻を穿ち、鼻糞をとり、無邪気な顔でペロリと食べた。

 
「さすがに朝から三度目だと鼻糞も出が悪いわ。ほとんど鼻水みたい」
「お嬢様、それはソクナッハ卿の前でもなされるのですか?」
「どういうことかしら?」
「いえ、人形のように美しいルベータ様が、その……鼻糞を食べるというのはちょっと無作法に過ぎるのでは……」
「あら、鼻糞を食べることのどこが悪いのかしら? 私の家族で鼻糞を食べない人はいなくってよ?」


 そう云うと、ルベータはきょとんとした顔で深志を見つめた。その表情は、鼻糞食を諌める深志のほうがおかしいのではないかという、まったく自身の過失に気づいておらぬ風であった。

 
「聞けば貴方のような職人は、夏場には塩分を補うために塩飴のようなものを携帯していらっしゃるようだけれど、本当かしら?」
「仰る通りでございます、これがその塩飴でございます」
「鼻糞って何かしら?」
「汚物でございます」
「塩分ではなくって?」
「汚れた塩分でございます」
「貴方の話って筋がおかしいわ。貴方、私のことをどう思っていらっしゃって?」
「世にも稀なる美しいお嬢様と認識しております」
「それなら、私の鼻糞がどうして汚れた塩分になるのかしら?」
「ルベータ様の鼻糞は奇麗な塩分でございます」
「それなら貴方、深志といったかしら。これからは汗をかいて塩分が欲しくなったら私の鼻糞を食べて頂戴」
「ルベータ=ソクナッハお嬢様……」


 こうして深志は、作業の傍らルベータの鼻糞を食らうこととなった。ソクナッハ卿の無知が引き起こした寸法違いの棚を削るのが本当か、或いはルベータの鼻糞欲しさに屋敷へ通っているのか、どちらが本懐であるか、深志の中では答えが出ているのだけれども、いずれにせよそれらは他言すべき類いの性質のものではない。

或るOLのダイエットに関する詳察

  その女性は遠目に見ると美しいけれども、近づくとグロテスクな、花に喩えれば向日葵のような性質をしていた。瞳同士が離れすぎているのと、鼻の傾斜がなだらかすぎるところが特に男を失望させた。顔面にサッカーボールのめりこんだような顔立ちなので、ここでは仮に名をメリ子としよう。


 メリ子は考えた。彼氏が出来ない理由は何なのだ? ……ところでこの自問はメリ子自らが己の決定的な欠点をあぶり出す作業に他ならぬ。およそ人というものは、的外れな指摘には笑い流すなりと平静でいられるが、触れられたくない部分、保護膜の薄い急所を見事に突かれると心中穏やかではいられない。過敏な自己分析は往々その人を厭世的にさせる。指摘するのは容易いが、肝心の解決策を用意するところまでは頭が回らぬ、こんな人が世の大半であるから。


 そう考えればこそ、男に縁のない自己を呪いつつ、ハッキリと原因を知りながら、それでもその理由の本質にあえて蓋をし、根本的解決から我が身我が心を遠ざけようとしたメリ子の逃避的な選択は、ずいぶん人間らしいと云わねばならぬ。メリ子は、距離の縮まらぬ瞳はさておき、せめて異性との距離感を贅肉の削ぎ落としによって狭めようと試みた。


 私がそうと決めたから 今年の夏は サラダシーズン


 実につまらぬ句をしたためてから、上機嫌でまずメリ子は体重計に乗った。46キロとある。彼女の身長は162センチ、我々男性にしてみれば既に落とすべき肉もなく、むしろ弄ってほしゅうない。しかしながらメリ子とてそんなことは百も承知のダイエットである。本来致命的な欠陥でありしかも充分に認識しているが決してわざわざ触れたくはないそんなセンチメンタリズムに溢れる『離れた瞳』、メリ子はやはりここを気にしないではいられなかった。であるからこそ、更に細くなればことによってはモデルのKIKIちゃんのようなちょっとお洒落美人とも呼ばれかねない雰囲気を『離れた瞳』があることで体得するのではないかと、奸計を思いついたのであった。それは同時に、メリ子の最も気にする部位は低く潰れた鼻であることを白日に晒したこととなったが、メリ子は強いてそれを無視してサラダ生活を始めた。


 そうして野菜ばかりを食らい続けるメリ子であったが、日にして35日、体重が44キロにさしかかったあたりでどうしようもないマンネリズムに襲われた。サラダ生活と一口に云ってしまえばそれまでだが、メリ子はドレッシングから添える野菜に至るまで、余程様々の種類を捻出しては食らい続けていたのであって、その努力たるやおよそ男の理解の及ぶところではない。正直のところ、もう生野菜は見たくない、そんなところまでメリ子のサラダ生活は汲々たる思いに縛られていたのであり、野菜への呪詛が甚だしく彼女の心を蝕んでいた。


 そのうちメリ子は、ダイエットよりもむしろ或ることを深く意識するようになった。


(サラダイコールヘルシー……タダシクナイ……)


 それまでメリ子にとってサラダとはすなわち生野菜の集合体であった。サラダとは野菜の云いであると信じていた。ところがいざサラダという存在と真っ向から対峙してみたところ、サラダの中にはマカロニサラダもあればチキンサラダもあり、挙句には玉子とマヨネーズを和えただけで玉子サラダと呼ばれる代物や、じゃが芋をふんだんに取り入れたカロリー過多極まりないポテトサラダもある。頑固なメリ子はあくまで生野菜のサラダに固執し続けたが、ふと思い出したのは、実家の母が野菜も食べなさいとポテトサラダを押し付けて来た小学時分の夕食の風景。メリ子は考えた、(ああ、母は、『サラダ』と名のつくものなら何でも身体に良いと思っていたに違いない……。概念に囚われた挙句、本質を見失った者のなんと哀れなものよ……)


 そうしてメリ子は、自身の経験からサラダ信仰を捨てた。否、厳密に云えばより求道的なサラダ信者となった。仏教に喩えるのならメリ子は大乗の大味ぶりに嫌気を覚え小乗へと没入するようになった。メリ子にとってサラダとは、必ず野菜でなければならぬ。この観念がブレてしまったら最期、これまで己に蓄積されてきた膨大な知識常識その他万事が瓦解せられるような、強迫的な思いに駆られたのである。メリ子にとっていつの間にかサラダは、理性を保つための強固なる砦と化していた。


 夏を終え、晴れて40キロまで体重を落とすことに成功したメリ子に構う男は残念ながら今のところ現れない。けれども、いちばんまずい鼻筋を云々しようと腰を据えて考えることはおそらくないであろうとは本人の云いである。メリ子はムスリムでもないから顔面を露に、堂々と、今日も職場で鼻を潰しながらタイピングに励む。弱点の所在を常に他人に『物質的』には晒しながらも『精神的』には隠し続けている。が、そんなアンヴィバレンツよりもサラダという言葉の自分なりの意味、価値を堅持し続けることのほうがむしろ、メリ子の精神の安定に欠かせぬ要素となった。メリ子は云う。


「私にとって重要なのは、私のサラダを受け入れてくれる男性がいるかどうかなの」


 こうしてメリ子はいつの間にか、付き合う男性に求める条件を一つ追加する羽目となった。


 

夢見がち男

夢見がち男(25歳)は都内に働くサラリーマン。学生時分には映画と音楽をよく愛したが、今は上司と酒を飲むことや女とのセックスが楽しい。


観念から即物へと住まう世界を変えたがち男は、つまるところ映画や音楽ひいては芸術全般をそこまで愛してはいなかった。高校から大学にかけて、他者との差別化をはかるため努めて他人が選ばぬものを選び続けてきた結果、素人目にはなんとか個性的らしく見えるセンスを備えるに至っただけなのである。


「俺は、まるでひとけのない場所なんて、もともと歩く気がなかったのだ」


俺はこいつらとは違うのだ、そう言いつつもがち男は、マガジンハウス刊行物に記載された情報群からは寸分も外れようとしかった。そんな男がどうして個性的だと周囲から思われるのか?


日本人が使う携帯電話を見てドイツ人が近未来と唸るように、がち男は時差の妙を毎度用いたのである。飯屋Aが雑誌やネットに登場するや、あたかも昔から知っていますの顔をして周囲にひけらかし、周囲は一月経ってからテレビで実際にそれを見知り、がち男すげえなとなる。しかしながらがち男はその頃既に飯屋への興味は喪失し、新しいジュニアアイドル情報を発掘しており、吹聴、半年後にブレイクするや先と同様の喝采を浴びる…。つまるところ、先取りしているだけで何をも生み出さぬ編集者の傀儡なのであった。人のアンテナを私物化し、あたかも自分が素晴らしいセンスを備えているかのような錯覚、作り手としてはまことありがたい存在、実は誰より躍らされているわけだが、当人それを主体性と思い込んでいるのだからこんなにめでたいことはない。そういうわけであるからがち男は、決してセンチメンタル出刃包丁など聴こうとはしなかったし、自分以上の情報強者や実際表現活動に携わる人間とも仲を深めようとはしなかった。威張れなくなるからである。


ちょっとした分かれ道でも、長く歩き続ければまるで違う景色を眺めることとなる。がち男は、個性を個性たらしめる活動を本質的にはまったく放棄していた。それは、あくまで他人と同じ景色を眺めていたかったからである。ちょっと変わった風に見られたくはあるが、それによって失うものがあるならば、御免こうむりたい。彼は、アクセントに胡椒をかけることには賛同するが、思い切って豚骨ベースにされるほどの上昇志向など、つゆほども持ち合わせていない、サービスエリアの鶏ガラだし醤油ラーメンなのであった。

ライト8番恩田誠三郎

「オーライオーライ!」


 草野球でもライト8番の恩田は、二子玉川グラウンドの土手沿いを犬と歩く美女にすっかり幻惑されていた。土手は小高く、グラウンドからその姿を眺める恩田は、傍目には崇高な思索に耽っているように見えるが、視線の先には美脚がある。パンチラを期待するにはやや角度に浅すぎるものの、ヒールの高い靴をはく女の脚には、見る分にはほどよい緊張感がみなぎっており、すらりとのびるその脚にはまた、毛穴の一つもないであろうこと、50メートルも離れた恩田にはしかしながら明白で、事実左手のグラブは股間を覆い、ボールを掴まねばならぬはずの狭い空間の中では、右手が陰茎を弄んでいる。


(舐めたい、舐めたいよ…。3万、3万でどうだ!?)


 美女は恩田に気づかぬが、犬が恩田を睨んでいる。刹那、金属バットの快音が恩田を現実に戻した。見れば猛烈な速力で空を駆け抜けるものがある。ライトフライか! 恩田は焦った。


「オーライオーライ!」


 美女への想いも拍車をかけて、恩田の大声は、澱んで重苦しい六月の空気を突き抜け、川向こうまで届いたかと思われるほどであった。と、ベンチに座るマネージャー達がクスクスと笑うのが恩田に聞こえた。笑い声の起こった方向に目を遣って恩田は、ベンチではなくその手前、一塁の様子に愕然とした。ファーストが、小学生のアキレス腱運動のような大袈裟な姿勢で、ベースを踏みつけつつボールを手中に収めていたのである。ライトフライはどうなったのだ? 上空を仰ぎ見て、恩田は尚叫んだ。


「カ、カモメじゃないか!」


 それからほどなくして恩田は草野球チームを脱退した。穴のあいたライト8番には順繰りに女マネージャーたちが入ることとなったが、勝率は下がるどころかむしろ上がっており、チームの雰囲気にしてもこれまで以上に親密となった。


 後日恩田は、土手沿いを散歩している最中に、相も変わらず草野球に興じるかつての仲間たちを、みくだすようにして眺めた。ライトに入る女の脚は、恩田のそれよりも太い。マネージャーの座るベンチには、産毛の生えた大根が八本並んでいる。


「ねえ貴方、よくこんな人たちと草野球やっていたわね」
「この土手、君のパンチラを拝むには角度が浅すぎたが、あいつらをみくだすにしてもやっぱり浅すぎるよ」


 恩田の隣には、犬と美女とが並んで歩いている。

南京

 男が出張から戻ると、部屋の真ん中に段ボールが置いてあり、上にはくりくりとした野良猫が寝ていたのである。


「おい起きろ」
「ニャーゴ」


 猫のどいた箇所には伝票が貼り付けてある。ちょうど爪を研いだらしく住所の欄が裂けているため何処から来たのかは分からぬ。差出人の名には婉如(えんにょ)とあった。婉如、はて婉如。こんな知り合いいたかしらん。ガムテープを剥がす。剥がしたはいいが、ゴミ箱が見当たらぬ。してみたところさっきの猫が再来したので、これの背中に貼り付ける。手近に転がっていた饅頭の封を開け、半分くれてやる。あとの半分は自分が食うために残す。


 中身は南京という銘柄の煙草が二十カートンからの大量であった。南京、はて南京。こんな煙草日本にあったかしらん。赤地に金字と華美のデザインから察するに、この荷物はつい今朝まで滞在していた中国より届いたものらしい。こんなに大量の煙草を送るのだから婉如とは自分と何らか因果のある者であるに違いないが当該の人間まるで浮かばぬ。仕事に関与した人物は、三人が三人「ワン」と名乗っていた。


「ニャーゴ」


 ものを考える時には煙草が必須の自分であるから、ちょうど送られてきた煙草を呑めばよいとして一箱を手にとった。十二ミリとある。強そうである。火を点ける前に臭いを確かめる。辛い香りが鼻腔を刺す。不味そうである。


「ああ、婉如か」 


 舌に合わぬ煙の味に、忽ち記憶が蘇る。さては婉如とは、北京で行きずりとなったあの女に違いない。酒場に偶然隣り合わせて、そのまま我がホテルに転がり込んできたあの女、確かに婉如と名乗った。北京に滞在したのは出張初日のことだからもう十日も前の話になる。感じあったことよりむしろ、此方会話も通じぬ日本人だのにどうしてわざわざ筆談までして迫ってくるのか、気質の異様に印象が強い。二十歳の割にはつやつやとした美しさに乏しく、色白の肌にしても美しさより病弱の趣に勝るような、どちらかと云えば薄幸の雰囲気を備える地味な女であった。隣室には貴方の上司がいるからとて声をおさえつ耽る表情の色っぽかった場面を除いて、まるで顔が思い出せぬ。


「我欲煙草」


 二人相果てベッドに身体を埋める室内は、筆のさらさらと紙を滑るばかりが音楽であった。間が持たぬ。煙草を求める旨したためて起き上がるとテーブルのキャメルに手を伸ばした。すると婉如はこの手からそれを奪って自前の中国製を一本差し出してきたのである。中国には煙草を振舞うが如き習慣のあること、ここに初めて知った。


「美味?」
「美味美味」


 常ならば灰皿に潰す不味さであるが、それは婉如の笑顔もまた潰す結果となろう。婉如の心を思えばこそ、フィルターの焦げるまで吸い尽くした。そうしてあの日無理繰りに嗜んだ煙草こそ、眼前の段ボールに敷き詰められたこの南京である。翌朝去り際に住所を聞かれたのも、さては自分の気に入った味とみたが故かもしれぬ。


 国外便となれば値段はかなりのもの、決して安からぬ贈物である。それにしても二十歳の女が段ボール一杯の煙草を送るとは、姿に哀しく気質に不器用この上なし。洒落も洗練も知らぬ心は穢れを知らぬが文化も知らぬと見える。更に悪しきことには何か送り返そうにも野良猫の悪爪が婉如の住処の記された伝票を切り裂き、我らが仲をも引き裂いた。どうしてこの女の薄幸を嘆かずにいられようか。


 渋い表情に咥え煙草をフィルターまで焦がすうち、半分残しておいた饅頭も、はや野良猫に食われてしまっている。怒る気になれぬ。ああ、野良野良と罵られるばかりが芸のこいつにしても、名のないばかりで我が家に毎日顔を出すこと飯を食うこと飼い猫と変わらぬ、ただ産まれた場所の違(たが)うばかりに夜ともなれば家を出されるとは、これもまた随分の薄幸である。おお、なんということ、野良にしろ婉如にしろ、報われるか否かは自分の意志にかかっているではないか。さればこいつを冷たくあしらうことは婉如に対して不義を働くようでいかにも心苦しい。助けられる者は助けねばならぬ。よし、今日からお前は野良ではない、名前をつけてやる。同居する親が許さずとも、毎晩この部屋に来れば宜しい。金玉のないところをみればどうやら雌のようであるから、この世にまたとない、一番可愛らしい名前をつけてやろう。


「れいなでどうだ。れいたん」
「ニャーゴ」


 我ながら得心のゆく名前をつけたからには、段ボールを巣としてやろうと思い座布団の二三枚を中に詰めようと煙草をどかすと、なにやら底から紙が出てきた。手紙のようである。差出人は婉如、たったの一文ではあるが、日本語で書いてある。一読するなり泣けてきた。


「貴方の五千元、盗みました。ごめんなさい」


 はたして婉如は単なる盗人であった。人間万事塞翁が馬、それからというもの雌猫れいなもすっかり自室を訪れなくなり、庭に出くわそうものなら目の合うより早く姿を隠す有様である。南京の不味いにも慣れた。

目覚め 1

「あんた、塩分で身体おかしくなるわよ」
「てめぇが目玉焼きにかける量より少ねぇだろうがふざけんな」
「親に向かって!」
「あー!?」

 
 おかずに箸をつけず醤油を落とした米だけを食う息子を見かねた母親の心遣いであったが、息子である侍男にはいつもながらの煩い小言でしかなく、起き抜けなだけ沸点に達するのも早かった。怒りに大声をあげた侍男は、そのいきおいで今度は手に持っていたみそ汁の椀を母親に投げつけると、熱いと絶叫する母をよそに居間を抜けてそのまま家を飛び出した。おさまらない感情から力まかせにドアを閉めたものの、外側からはいきおいのつかない仕様が速度に覇気をもたらさなかったものだから、思惑の外れた侍男は更に憤慨して大声をあげると、ドアを思い切り蹴飛ばすことで感情表現とした。


 時刻はまだ午前六時、屋内との温度差にたちまち息が白い。烏共が庭で残飯を広げている。侍男は自転車を引っ張り出すと、追い払うでもなくその光景を眺めた。寒さに頭を冷やしたわけではない。生きるために懸命の動物に罪なしのような感情が湧いてきたのである。中学生の侍男には、万事に打算や理屈で動く大人よりも、その場その場をもがく動物共のほうが自分に近しい存在のように思われた。


 学校へ行くにはさすがに早すぎるのであるが、かといっておめおめと家に戻るのは自尊心が許さない。そうしてペダルを漕ぎ始めた侍男の向かった先は、友人の家であった。


「諸田君いますかー」
「あら、早いのね、まだあいつ寝てるけど起こす?」


 玄関に出てきたのは、諸田ではなく二つ年上の姉であった。昔からの顔なじみでもあるし今さら緊張する間柄でもないのだが、侍男は溢れる色気のせいで返事に吃った。自分よりも一足先に中学にあがった彼女を見た時にも同様の思いを抱いたが、高校生となったことでぐっと大人びて見えたのである。小さめのパジャマが身体の曲線を強調しているせいもあった。風呂上がりで暖まった彼女の身体からは熱気と石鹸の匂いとがぷうんと漂っていて、侍男は口で呼吸していたところをとっさに鼻に変えたりした。


「すごい、髪の毛凍ってるよ」


 髪も乾かさぬまま家を飛び出した侍男は自転車で風を切るうち頭を凍らせていて、それを見つけた諸田の姉は、珍しいものを見たといった様子で侍男の髪を弄りはじめた。玄関は廊下よりも一段低くなっていて、侍男はやや見上げるように姉と対峙していたのであるが、彼女が背を曲げながら頭を触るものだから、首もとに隙間ができる格好となっていて、そこから侍男は丸みを帯びた白い乳房と、滑らかなお腹とを見た。薄ピンク色の乳頭とすら目が合った。全身からたちのぼる甘い匂いだけでもたまらないというのに、そんなものを見てしまったものだから、侍男はすっかり頭に血がのぼってしまって、なんやかや話しかけてくる彼女に対してもふんふんと生返事をするばかりで、そのうち体内から湧き出る熱情をおさえることがきかなくなってしまい、


「わあー」


 と一声あげるや諸田の姉を力任せに抱き寄せ、後ろにまわって胸を思い切り掴んだ。見た目よりずっと柔らかい感触が、指から全身にかけて電流みたいなものを伝えた。女性の身体は思った以上に華奢で温かく、且つは甘い匂いがすることを知るにつけ、こんなものをずっと抱いていられたらそれに勝る幸せはない、天国ってきっと女性のことじゃなかろうか、一瞬のうちにそんなことを思ったりもした。


「ちょっと、ばか!」
「ご、ごめん!」


 勢いこそよかったものの、いざ注意されると悪いのは明らかに自分であること侍男にも分かっているものだから、全身を小さく丸めながら後ずさることで謝罪の意を示しつつ、自転車に跨がるとそのまま学校を目指した。


 あたりはまだ暗く、これからみな学校や会社へ向かう平日とは思えぬほどに静かで、自転車のキイキイ音だけが響いている。銀輪を路面に滑らせながら、侍男は諸田の姉との件を回想した。どうせ抱きついてしまったのだから、お姉ちゃんいい匂いがするとか、有り得ないくらい勃起したとか、スケベな身体になっちゃったなとか、そういう言葉をかけるべきだった、などと悔やむべき点を挙げつつ、そうはいってもまたとない素晴らしい経験ができたことを心の底から喜んだ。興奮のせいか、すっかり頭髪は氷解していた。

蛙子

 パックを終えた妻が布団に潜るなり私に言った。


「あなた、やっぱり小さくなっているんじゃない?」
「そんなことあるもんか」
「あるわよ、私の胸のところにあなたの顔があるじゃない。変よ」
「ばかだなあ、屈んで甘えているのさオッパイチュウチュウ」
「まぁ」


 妻の指摘は正しい。ここ十日の間に私の身長は百センチも縮んだ。元々百九十以上もあったところが、劇的な縮小の末に今では児童のような風体となっている。とはいえ若返っているわけではない。顔などは三十五歳のままに、ただ身長が低くなっているのである。百七十台に差し掛かった頃から妻もさすがにおやと思ったらしく、最近はとにかく身長の話ばかりをふってくる。今みたいに母性をくすぐることでうやむやにできるのもあと何回とないであろうから、うまい言訳を考えねばならぬ…。


 私は消滅したいのである。私と妻は現在中国の田舎に二人で住んでおり、そこでは駐在員として工場長みたいな仕事をしているのであるが、もう耐えられなくなった。こんなもの誰が買うのだ、そんな商品を玩具屋や雑貨屋に見つけた経験は誰にもあるかと思うが、たとえばそういうがらくたの中にはまきぐそに車輪のついた偽チョロQのようなものがあって、それが全て私の工場で作られているのだからやっていられない。寿司に車輪のついたものも作っている。直視できたものではない。


 製造した先からごみとなるそれら商品の価値に、雇われた地元民達は無関心のようである。やりがいを求めるとか、そういう観念を持ち合わせていないらしい。無理からぬ話で、彼らにはまず金のないことには死ぬという過酷な現実がある。選択といったら農業か工業か、せいぜいそれくらいのものでしかなく、やりがい云々を語る余裕などない。与えられた環境が我々の育った日本とは違いすぎるのである。「たとえ製品が甘エビに車輪のついたおもちゃであろうが、それを作ることで金を得られるのなら文句は云わない、工場が潰れてしまうことこそが問題なのだ…」自分を守ることに必死のあまり行為の正当性にまで頭が回らない彼らのこうした弁は、一方で私に人間の強さというものを教えてくれるが、その一方では決してこうなりたくないという感情を覚えさせる。私には彼らの人生が万事において詰んでいるように思われてならない。


 打倒資本主義、人間らしさの追求を、そんな壮大な野望を抱くにはいささか青臭さを失った私であるものの、斯様な現実を見るに及んでは、いよいよ世の中への不信が拭えない。地球は思っていたよりずっと汚いじゃないか。だから私はもう消えてしまいたい。自分の人生がどうというよりむしろ、他人の不幸を見ていられなくなってしまった。恐ろしく不公平なこの世への反発、消極的ながらもこの身をもって現世批判としたいのである。でも痛いのは嫌だ、何より自殺は恐ろしい…。


 そんなことばかりに思いをめぐらせていたのがここ一年の私であった。そこへ或日一人の老人が私の家へやってきた。聞けば、霊峰泰山に住む仙人であった。


「お前、死にたいのか」
「何で分かりましたか」 
「この石鹸を使いなさい、徐々に身体が小さくなってそのうち消滅する」
「ありがとうございます、なんと御礼を云ってよいのやら」
「泰山と富士山も姉妹提携したのだし、お近づきのしるしだ。もっともお前は消えてなくなるがな」 
「ありがとうございます、なんと御礼を云ってよいのやら」
「注意せねばならぬこととして、決して他人に使わせてはいかん。ちょうど人一人が消えてなくなるだけの分量しかないからな。ちょっとでも使われてしまうとお前は虫みてぇな大きさでこの世に残ることになってしまう」
「おそろしや」
「ここは中国です」


 そうして石鹸を使いはじめて今日に至るというわけである。現在私は九十あまりの身長、このぶんだとあと一月もあれば確実に消えることができそうだ。心残りといえば未亡人となってしまう妻・美人子のことがあるものの、彼女ならきっと良き男を再び見つけるだろう。身長百三十、色白にして爆乳の妻はまだ十六歳、パンツも綿パンときている。その方面の男からの人気も抜群で


                 ※


 蛙子が男の家で本棚整理をしている最中、ふいに本の間から一枚の紙が落ちた。そこには上記のような書きかけの文章がしたためてあって、さては彼が書いたものかと感づくと窃視の愉悦に気分も高まり一気に読み切ったのであるが、はたして内容に不機嫌極まった。妻を捨てて勝手に消滅しようとする男の身勝手もさることながら、それ以上に最後の描写が蛙子をたまらない気持にさせたのである。蛙子は身長も高ければ乳も平たいし、下着は綿パンどころか陰部の透けるような猥褻ぶり、どう考えても自分以外のモデルを頭に描いているように思えたのであった。


(彼女がいるくせに他の女を思い浮かべるなんて酷い…! どうせ問いつめたところで妄想だよくらいにしか云わないだろうけれど、こういう時の私の勘は確かで、さてはあいつ、浮気しているな)


 などと蛙子は文章から別の女性の存在を解釈した。そのくせ、


(この仙人とかいうのはきっと友人で、消してやるっていうのは別れさせてやるってこと、あいつら二人して私をはめようとしているに違いない)


 などと都合に合わせて今度は女に自分を当てはめたりもした。そうやって自分本位に己を悲劇の主役に仕立て上げると、文書の内容を盗み見た非などさらさら考えないまま怒りを募らせ、一旦苛立った心情を冷ますのはもったいないとばかり、ベッドに寝そべってゴム遊びをする男に怒声を浴びせた。


「ちょっと! 何コレ」
「何だよ、指で伸ばした輪ゴムのドレミ音を探しているから今忙しいんだよ」
「見てよホラ何これ誰なのこれ」
「誰も何もないだろ、ただの落書きじゃないか」
「このコ誰って聞いてんの、若くて小さい色白の浮気相手でもいるんでしょどうせ、あーあ貧乳でごめんね」
「お前…頭大丈夫か?」
「どうせあんたとあの小平とかいう男二人で私をハメるんでしょ? 小平って仙人でしょ? 私と別れたいんでしょ? 消えたいんでしょ?」
「小平はたしかに仙人だけど他は全部間違っているぞ、そもそも浮気相手が作中の女でお前も作中の女って何なんだよ、論理破綻している」
「人が大事な話してるのに何輪ゴムで遊んでんのって言ってんの!」
「そんなことは今初めて聞いたって!」


 都合の悪い箇所に指摘が及ぶといつだって蛙子は感情を剥き出しにすることで話をはぐらかそうとするのだが、この男は肝の座った男であるから一人の女の恫喝などいっこう堪えず、飄々とした調子を崩さない。そしてその平然とした態度に蛙子は更に腹を立たせて、ますます大きな声で喚く。


「調子乗らないでよね!」
「うるせえなあ、帰れよもう」
「…なんでそういうこと言うの…?」
「ウワー」


 そうしてこの後、男は蛙子を慰めながら、こちらの愛のいかに深いかを言葉巧みに聞かせた。この、愛の確認作業とでも呼ぶべきひと時は、男にとっては苦痛以外の何物でもなかったが、蛙子にとっては自分を中心に地球が回っているような心地がしてたまらなく嬉しいものであった。男もそれが分かっているだけに妥協するのだが、男女間の相違を嫌なほうに捉えてしまうのは、まさにこのひと時があるせいかもしれなかった。その期に及んで男は、この書きかけがそういえば一年ほど前に蛙子と喧嘩をした直後のものであったこと、確かに別れたかったし、他の女を思う節もあったことなどを思い出した…。


 この作品を書き切ろうか。胸元に蛙子の頭を抱えつつ、そんなことを考えた。

calendar
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>
sponsored links
nekokiの本棚
twitter
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM