地獄には鬼がいるという。地獄には悪業を働いた人間が堕ちるという。死んでなお鬼に虐められねばならぬほどに悪業とは許されざるものであるらしい。悪業とは一体なんであろうか。それはもうよほど悪いことに違いない。だが我々は動物を食うなどといった殺生をしているのだから既に大罪人である。生まれもっての罪人たる人間を、それでも仏が救うと説いたのは親鸞上人、原罪を救済するのは神であると説くのは、キリスト教。だが、信心深くさえあればどんな大罪であれ悪業は全て放免、逆に信仰を怠れば鬼に虐められるのだという論法がまかりとおってしまうと、現世でレイプ一万件男すら、信仰心さえ持っていれば救済されてしまうではないか。してみれば最大の悪業とは信仰に他ならぬ。そんな免罪符あってたまるか。信仰を盾に地獄行を免除されんと企てる輩こそ、本物の悪党である。鬼が罰する人間が頭足らずの小悪党ばかりで良いのだろうか。良いはずがない。だから私は、やっぱり選りすぐりの悪い人こそ、鬼の金棒でひっきりなしに殴打されねばいけないと思う。鬼は、仏神を超越する存在であらねばならぬ。
自分のしてほしいことを他人に施すな、趣味じゃないかもしれない、とそんなことを云ったのはソ連型社会主義になびいた髭面の作家バーナードショーだが、いかにも作家らしい偏屈なアフォリズムではあるものの彼の言葉には一理あって、たとえ善意が根底にあれどそれが行為の正当性を保証しない場合もたくさんあると私は思う。たとえば私は鍋奉行的な人によって私の取り分のサラダにドレッシングを勝手にかけられたりすると、それだけでもう食う気をなくす。私にとってそれは、立派な悪業にほかならない。あっ、こいつ鬼に金棒で殴られるべきだなと、思う。ただ、それくらいでかんしゃく起こす私の性質そのものが、他人にとって悪業であると云われたら、それも否定しない。ああ、私もまた、鬼の金棒で殴られねばならないなと、思う。
つまり、みんな主観では正しくとも客観視すれば必ずや悪業を働いているに違いないのだ。この世には、寿司の形をしたゼンマイチョロQもどきのような、作った先からゴミになるものを作る人もあれば、なかば詐欺師の口上で老人の資産を管理運用することに労働精神をフル活用する銀行員もいる。私から見れば、ほとんどの人が金棒の餌食になるべきだと思う。何もしていない人は、その何もしていなさゆえに金棒で殴られるべきだ。働きすぎて立派に輝いている人は、その立派さが周囲に劣等感を与えているという意味において、これまた立派に金棒の対象である。
たぶん、鬼の金棒はクッション材でできていると思う。
自分のしてほしいことを他人に施すな、趣味じゃないかもしれない、とそんなことを云ったのはソ連型社会主義になびいた髭面の作家バーナードショーだが、いかにも作家らしい偏屈なアフォリズムではあるものの彼の言葉には一理あって、たとえ善意が根底にあれどそれが行為の正当性を保証しない場合もたくさんあると私は思う。たとえば私は鍋奉行的な人によって私の取り分のサラダにドレッシングを勝手にかけられたりすると、それだけでもう食う気をなくす。私にとってそれは、立派な悪業にほかならない。あっ、こいつ鬼に金棒で殴られるべきだなと、思う。ただ、それくらいでかんしゃく起こす私の性質そのものが、他人にとって悪業であると云われたら、それも否定しない。ああ、私もまた、鬼の金棒で殴られねばならないなと、思う。
つまり、みんな主観では正しくとも客観視すれば必ずや悪業を働いているに違いないのだ。この世には、寿司の形をしたゼンマイチョロQもどきのような、作った先からゴミになるものを作る人もあれば、なかば詐欺師の口上で老人の資産を管理運用することに労働精神をフル活用する銀行員もいる。私から見れば、ほとんどの人が金棒の餌食になるべきだと思う。何もしていない人は、その何もしていなさゆえに金棒で殴られるべきだ。働きすぎて立派に輝いている人は、その立派さが周囲に劣等感を与えているという意味において、これまた立派に金棒の対象である。
たぶん、鬼の金棒はクッション材でできていると思う。