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  • 2015.10.23 Friday
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上海

何度目かの台湾へ行ってきた。私の思うに台湾は見所がたいして無いばかりでなく高温多湿で島国の割には空気も臭いというわけであまり居心地の良い国ではない。けれどもアジア圏にあってはぼったくりも少なく人柄もおしなべて良好である。買物目当ての人もあるらしいが、物価を安いとは感じない。これはグローバリズムに伴って日本という国の経済力が相対的に低下している結果なのだろう。バブルの残り香を幼少期のシティハンターやドラマの中にだけしか感じとれなかった私にしてみれば、不満の種にもならない。


私が台北で唯一行くべき価値があると踏んだのが、晩飯を食った頂上という店である。炒飯一万、フカヒレ三万という具合に金額の積み上がるこの高級店は、デニーズとキャバクラの折衷じみた内装で、ピンクと金色を主体としている。店員はCAの格好をしており、仏像のオブジェなどが点在している。夏になれば外の虫が全てガラス張りの壁面に寄り付くのではという高ルクス照明で、高級そうなイメージを全てぶち込んだ挙句に糞のような装飾が出来上がった一つの極致である。


飯は、四人で十万の出費となった。刻まれる鮑は消しゴムで云えばまとまるくん程には大きく、フカヒレも輪ゴム一箱分くらいの分量である。高い中華は他国の料理に無い濃厚な旨味成分を含むのが常であるが、ここの鮑とフカヒレはその旨味量において未曾有で、ただ美味いと表現するほかない。十万と聞けばたじろぐけれども、四人で割ればたいしたことなく、イメクラへ行ってから合流して和民にしけ込んだ男たちの散財具合を考えてみれば同じか或いはそれ以上であろう。台北へ行く機会があれば、頂上だけは行く価値があると私は断言できる。






中島らも

あの人が何かのエッセイの中で、病気ではじめるダイエットを主張していたなと思い出したのは急性腸炎で救急病院に運ばれた或る晩のことだった。私は以前にもフィリッピンでウニにあたった経験があるけれども今回の腸炎はそれに輪をかけて重症で、瞬間風速はインフルエンザを遥かに上回った。発熱は三十九度を超え、目眩と悪寒と波濤の如く押し寄せる吐気下痢糞に秘孔破裂前の雑魚みたいなカクついたムーブメントを繰り返した。嘔吐せんと力めば糞が噴射される重大な誤作動の連続、臓器一切が弁の機能を完全に放棄したあの時の私は、もはや竹輪に等しかった。


生存にかかわるのではないかとも思えた辛い一夜を過ごすと、翌朝には熱がいくらか引いており、吐気のほうはすっかりなくなった。下痢は今もって続いているけれどもオムツさえ履けば出社も派手な動きも可能である。今回の病気で私は三キロ痩せたけれども依然として体重は六十五を数える。六月までに五十八へ落としたいのが乙女心で、腸の活動が鈍っている今こそが食事量を減らす好機だろうと、中島らもの軽口を真に受けた次第である。


他方、私は最近エレキギターを練習している。ギブソンレスポールという大正義を入手したことを端緒に、ツェッペリンとXだけをずっと弾き続けている。なかなか運指が上手くならないが、iPadをアンプに仕立て、youtubeで演奏を流しながら練習が出来てしまうその容易さは隔世で、キンキキッズの宣伝していた光るMDコンポに自作ディープパープルベストを流しながら接触の悪いフェルナンデスのアンプをぺちぺち叩いていたあの頃の仰々しさがたまらなく懐かしいけれども、戻りたいこともない。そういえばあのコンポはえらく頑丈で、高円寺の飲み屋に寄付するまで使っていた。東京に住んでいたこともすっかり忘れてしまいそうな昨今である。


練習のいきおい、様々の動画を眺めるうちヴァンヘイレンのカバーするロックンロールのライブ映像を開き、圧巻のダサさに大感動したというのが、なんといっても直近の良い話であろう。











磯野の本音

忙しい時に忙しい相手から電話が鳴って忙しくポケットの中からアイフォーンを取り出したらそのアイフォーン自体もまたずいぶん忙しかったとみえて釣られた魚のようにぬるぬると手を抜け終いには地面へ落ちた。パリパリに砕けた画面は小学生もしくは小平哲也に踏まれた真冬の水たまり然として、師走を感じる次第である。


私は先日彼女から、貴方のよく発する言葉にB級映画というものがあるがその定義は何と訊かれ、たとえば巨人症馬場対スタンハンセン病なんて映画があれば疑いようが無いと答えるも実在のところで教えてくれろと云うので、そいつぁよぉ、実写ルパンとかアメリカゴジラだぜぇ、ルパンの声真似をする小栗旬に似せて云ったところ、真似たことにすら気づかれぬ。他にはと問われたのでインデペンデンスデイやアルマゲドンもB級だと返すと、感動大作じゃないのという。


「感動大作だか池田大作だか知らないが貴女ね、あんなものに感動していたら飼猫が死んだ日には大小便噴いて目玉が落ちるぞ」


少しでも泣けそうな匂いがすれば泣いておかねば損、というこれは私とても食意地にも似た悪徳の一種であると捉えていて、軽薄さの混じるだけ一層腹立たしいのである。


「じゃあ貴方、何が泣ける作品だと思うの?」
「やっぱりE・Tだろうな」
「ああ、いいよね」


たとえ私と彼女の良いに違いがあろうとも大枠で一緒ならそれ以上は深追いをしないというのが彼女最大の美徳であると同時に欠落でもあるのだが赦されるのであれば私はそれだけで充分に幸せだ。そのようにして私は趣味や行動に関して大枠で認めてもらう術を得たのが二十代からの変化であり直近の成果である。この儀式を通過しないことには弦の一本爪弾くだけで言葉尻にも棘が乗るのだから、我々は怒らせてはいけない。外見にはうつ伏せで尻に敷かれているようでもその実、土中に埋められたオナホールに挿入しているのような愉しみは絶えず抱かねばならぬ。隠し事を取られたら何も残らないのは女ばかりではない。


朝シャンでもしよう。







UWFジャージを売って下さい

先日の都内下北沢で開催されたイベント会場にて販売された復刻UWFジャージをお持ちの方で、しかも譲渡可能であるという奇特な方が、もしいらっしゃった暁には下記へメールを下さい。どうしても欲しいです、悔恨、今生一の油断。

nekokinekoki@gmail.com

文学フリーマーケット

出張を終え、成田から東京駅へ向かった。日中の都内は梅雨を控えた空気が内向的に湿っており、その証拠には私の前では板東英二がタクシーを待っていた。


アメリカ大使館からほど近いホテルオークラに到着すると、ロビーの素晴らしい空間構成に寺社を訪れた時のような荘厳さを覚えた。金色の壁面とこげ茶の木質柱とが高い天井からなるほのかな灯りを優しく吸い込んで、幾何学模様のちりばめられた意匠すらその奇抜をいっこう目立たせないほどにたいへん落ち着きのあるマンセル値を叩き出していた。私はここに二泊したけれども、まずこれ以上は望めまいという完璧の接客にたいへん癒され甘やかされ、ホテルオークラ似の妻を持ちたいと思った。


あくる日、雷門を観光した時のことだ。前の若い男が私に踵を蹴られて舌打ちを鳴らした。人海に揉まれる仲見世通りの混沌にあっては踵を蹴飛ばされるくらいは想定の内であるべきだが、見れば男は裸足に靴の踵を踏みつけながら歩いていた。ゆえにいっそう痛かったようである。だがそれからもう、私は前の男が気に入らない。見知らぬ人間に舌打ちという、その無礼な行為が気に入らない。混雑を靴の踵を踏んで歩くという、その軽率も気に入らない。何より混んでいることがいちばん気に入らない。


と、男が左折の様子で裏路地へ抜けにかかった。ほとんど茹で蛸同然になっていた私は、ここで逃げられたら苛つきをぶつける先を失うので、当然もう一度蹴るわけである。してみればあちらが私へ絡んでくるのも自明で、関西弁で罵りにきた。上背こそないが、運動をしていそうなふくらはぎで、何より威勢が良い。


「お前さっきからなに蹴っとんねん」
「この混雑で踵踏みながら歩いといて蹴られたも何もねぇだろ」
「お前なに蹴っとんねん」
「知らない人間に向かって舌打ちしてどんな意味かわかってんのか」
「お前こっち来いや、オラ、こっち来いや」
ここで、私は向こうの意図するより間近に進むと腕を伸ばして相手のうなじに右手をかけ、ぐいと引っ張った。利き腕の左で殴るも良し、明らかに相手よりも固い靴で金玉を蹴り上げるも良し、身体の血が沸騰するのを感じたが、過去は云うに及ばず最近になって再びUWFや新日のクラシック試合ばかり見ている私は、ここから先が藤原の頭突きや前田の膝や天龍の拳やそんなものばかり連想されて当たる気がしないのである。さすがに始まると思った第三者の仲裁によって不穏の空気を残しつつその場は収まったわけだが、あの時は相手が悪いと思っていたもののこうして文章にしてみるとほぼ自分が悪かったようである。


これだからやはり、文章は書き続けねばならない。











多面体の芯

私は風俗嬢だが昼間は会社員であり、休みの日にはソーラン節で仲間と共に汗をかく。いずれにくみしていても、不可欠の人物として周囲から必要とされているようには思えない。


「昨日の夜は遅かったじゃないか」
「お客さんの指名が入っちゃって/残業が長引いちゃって/本番が近いのよ」


あなたの知る私によって、吐かれる言葉も種類を見る。ありのままを伝えるよりは、真実を掴んだ気にさせることがお互いにとって大切なのかもしれない。(由香里・都内在住・35歳)


感性が、思想が、緩やかに朽ちては削げ、やがて埋没し堕ちてゆく日常の中、自己を救済する手段が無い。真実を隠すことによって得られる『ここではないどこかにいる自分』の可能性。これを潰さないことが目下の延命であり、自己肯定に繋がる。世の中の価値観さえ変われば私にもまだまだ目がある、あなたの知らない私の本質、周囲が追いついてこないのだ……、


工場に勤めながら革命闘争に没頭した昔日の共産主義者もまた、ある日突然にして英雄になってしまう自己を夢想したのだろうか。


受身のヒーロー像はどれもこれもがセカイ系としてひとまず一つの類型に収斂されたが、人々の悲しみを受け容れる物語として機能するには器のいまひとつ狭いようである。あの期に及んで、エヴァンゲリオンに乗れない自分がいるのではないだろうか? 昔のヒーローは、困っていれば空から勝手に飛んできたものだが、今となれば世界の不都合は他ならぬ自身がこの手で救済せねばならない。落ちぶれるよりは主役になりたいが、なったらなったでそれはとても面倒くさい話だ。夭逝の囃されがちなのは、選民思想を持ったまま、それを試される場面に遭遇せず万能感に包まれたまま死んだがゆえ結晶となった、約束されえない未来、が、無限の可能性と混同されるから、かもしれなかった。










春琴

 私が芝居に足を運ぶ機会があるとすればそれは、谷崎潤一郎原作であるか或いは愛する女性がいる時で、今回はその両方である。


 その話はそれとして、私には大昔に知り合った一人の年下の男がいて、紆余曲折の末に彼は吉本興業所属となった。メディアを経由して彼を見たことはまだないが、ツイッターを眺めて、ちょっと面白かった。このちょっとが継続の証であり、何しろ概念として面白いものを掴む才覚はあれどその雲を掴むが如く曖昧なユーモアひとひらを言語化するという訓練に当時の彼は慣れていなかったため、面白いことを云う前に自分で笑い始めてしまうたぐいだったのである。消費者から供給者へ、彼の鍛錬の日々がついにあのツイートに至ったと思えば、私は彼に対して万雷の拍手を捧げたい。酒癖の悪いのは相変わらずのようだったが、そんな瑣末なことを気にして才能を練り上げることはできないし、私なんぞに至っては彼の婚約した画像を見るにつけ再会する時には四人で歓談がしたいと咄嗟に思ってしまうくらいには、すっかり俗物なのである。


 二人浴衣を着て、花火大会にも行ってしまった。たこ焼きや芋を食らいながらすするビールの炭酸が口腔に弾けるみぎり、宙空にもまた花火が爆ぜる。そうして二人の心の中では甘美なる恋の果実がぷちぷちと弾けては、かのピストル気違いウェルテルすらも参る次元の酸味を迸らせていて、腕にしなだれる彼女の健気で可憐な横顔を眺めるにつけ、幸せにしてやりたいと切に思う。まったくもうこの上ないので、どうか皆さんには可能な限り放っておいて欲しい。


 心の底から、放っておいて欲しい。


 

strange kind of woman

 重い腰をようよう上げてアルバイトを始めようかと思ったのは三年まえにも遡る。それから、頭ではわかっているが本当に始めるには至らず、犬にかけてあった保険金に手をつける日々である。金がなくなれば保健所から犬を連れて来て、友人の勤めるペット保険屋へ話をつけて、そのうち風呂に両脚を掴んだまま頭から漬込んでしまう。当面は食い扶持に困ることもないのだが……。


 なまじ賢しいため、職場で遭遇するであろうさまざまの面倒事が始める前から予見されて、そういうものがいつでも私の決心を動かないほうへと固めた。この職場ならどうだ、ダメか。ではあの職場なら……やっぱり無理だ。将棋の達人は盤を頭に浮かべて指せると聞くが、私もまた、頭の中で労働をシミュレートすることが容易い。私の中に描かれる障壁のうち、少なからずは大抵の人々にとっては取るにたらぬことかもしれない。それでも私にとってはあらゆることが不安の種で、なぜなら働いたことがないのである。



 私が働きたくないという考を確かに抱いたきっかけは、友人の姉だった。彼女は高卒で地元のスーパーに就職し、まだ十分に美しいにもかかわらず中年女性のパートに混じって総菜コーナーの裏方を担当していた。日がな、生食で出せなくなった古い食材を揚げてばかりいたのである。


「アジフライが美味しいよ!」


 友人の家で彼女と顔を合わせるたび、いつでも私にそう云った。


「おまけもするからさ」


 両親が旅行で家を空けた晩、そういえばアジフライだったと彼女の言葉を思い出した私は、閉店間際で客もまばらのスーパーへ足を運ぶと、総菜コーナーへ向かった。レインボーのアイサレンダーがスーパー特有のピンポン音源で響いていたのがなぜだか妙に記憶に残っている。レジを通せば半額の五十円。親から貰った千円の大半が手元に残った。


 帰路、シールの貼られたアジフライの入ったビニール袋を、人差し指を軸にくるくると回していた。電柱の高いところに設置されたほの白い街灯を受けて長い影を路面に落とす女性が前方からやってくる。友人の姉だった。


「こんばんは。あっ、アジフライ」
「安いんですね」


 そういえば、彼女はおまけがどうとか云っていやしなかったか。休みの日に買ってしまったのが残念だと、そんな話をした。


「おまけ、欲しい?」
「何か、くれるんですか」
「タダじゃないんだけど」


 タダじゃないおまけとは一体、私は彼女の意図を理解しかねた。


「ようするに、」


 スーパーで働いたところで給料に多くはのぞめない、とはいえ手に職のあるでもなしさりとて特別の夢があるでもない。そんな退屈な私ではあるがやはり十代後半となれば物欲だけは一人前で、手っ取り早く金になる話があるのなら是非とも甘んじたい、彼女はそう云うのだった。


「この先の公園に障害者用のトイレがあるから」


 道すがら、どちらともなく星を見上げて、月が満月のようだが少し欠けている気もする、満月はもっと大きい、距離は変わらぬはずなのにどうして色のみならず大きさまでもが違うのか、あれの理屈が分からない、そんなとりとめのない弁をぶっていればさすがに公園は近かった。園内に人気はなく、大きなクヌギの下に薄い光の灯るコンクリート造の四角い寂しい建物が便所だった。身障者用便所入口のバーハンドルを横に引くとドアのアルミレール上を流暢に滑ること、音すらほとんど立たなかった。そこには幸い乞食もおらず、内側から大きな丸いこれまた障害者でも簡単にロックできるよう設計されたサムターン式の錠を下ろした。彼女は私を蓋の閉まった様式便座へ座らせると、汚いであろう便所の床へ両手をぺたりとつけて、勢いよく両脚を空中へ投げ出した。倒立気味にのけ反ったかと思えば両脚の速度は寸分の衰えを見せることなくそのまま私の両肩へと膝から強く落ちてきた。ロングスカートの奥のほうに、筋が見える。


「はい、950円」


 蓋し商売とは両得であれとは聞くより悟るが早かったか、彼女はそのようにして銭を稼ぐことを思いついてからは、毎晩のように身障者用の便所でフランケンシュタイナー気味の動きを繰り返しているらしかった。弟の友人である私は特別に安い、さりとて触らせるでもなしあくまで見ること以上の得を相手に与えないからには総じて客単価は低い、だがそれ以上は私の矜持が許さないとそんな内容の言葉をつらつらと並べた。処女だったのである。


「アジの開きも股の開きも一緒よ」
「そうかなあ」


 時を経て、両の肩に打撃を受けすぎた今、私の腕は胸より高く上がらない。だが、生きるべき道は彼女から教わった。保健所に入る犬は、どのみち死ぬのである。どのみち死ぬものを利用して稼ぐことを非難するのなら、その対象は医者でもあり製薬会社でもあるべきで、彼らに『延命への貢献』なる弁護が立つとなれば、いよいよ私は『保健所にいるよりは私に引き取られたほうが長生きができる』と応える。


 決して変わらぬはずだのに、どうして月の色や形がいっこう変わってしまうのか。故に私は働かない。




 


 


 


 

 


云い知れぬ某

紡いだ文章が消えた。ありふれすぎている出来事だ。


出張は移動と待機が大半なので、読書だけはやたら捗る。遠藤周作、武田泰淳、山本清風、手塚治虫、伊藤潤二これらを丁寧に読み込んできた。iPadの利便性に唸る旅だった。


本来私はここでエヴァQのマリについて考察をぶちたいのだが、先んじて山本清風に見解を頂いたのとそこに加えて先頃就業体験で会社へやってきたエヴァにたいへん造詣の深い中学生とそれについて仕事もそぞろ問答に次ぐ問答を重ねたところ、思いのほか彼が感動してくれたのとでちょっと満足してしまった節がある。ロンダルキア以降ドラクエ2の難易度が異常なのは製作の時間不足に因ったことや、ビアンカ厨の童貞傾向などしたり顔で語る彼は紛うことなきニコ厨で、同時に回顧厨でもあり、後追いとしてはまこと正しく万事の二十年前に詳しかった。リアルタイム世代には及ばないが、という歳上を敬うが如き枕を添えながら、それでも昔のゲームアニメを振り返りつつ同時に現代に流行る様々を並行して吸収してきた身なればこそ、対比論気味に延々と語られる彼の考察はたとえそれの大半が受け売りであったとしても感嘆に値した。世界崩壊前のシャドウ救済に気付かずやり直したFF6は、バニシュデスとフェニックスの尾とドリル装備のある以上自らプレイを縛らないことには楽しみも何もあったものじゃなかった、それにしても俺TUEEEEが出来た当時の裏技要素は課金の形でしっかり継承されており、面白い裏技が少しでも長いプレイ時間をもたらしたり或いは一定の購入意欲にも繋がった面を考えたら課金増強も当時の裏技も製作側の意図はそう変わらない、課金システムがなかった頃には遊び心と褒められて、金が大きく動いてみれば批判されているんだから消費者も大概だなど、どうでもいいことに対してやたら尖りまた溢れんばかりの薀蓄をアラに塗れつつも垂れるさまに若いのだか老け込んでいるのだかわからぬと思ったがそれこそが中学生であると自身を振り返って認識してみればこそ、次世代の情報量に足の竦む思いがした。


「みんな君ほど掘り下げているのか?」
「もちろんクラスにも話し相手はいますが、それは生身だから、別のところに友情があるから、ただ共有しているっていうレベル。煮詰まった話はネットですね。僕なんか全然ですよ」
「ふぇぇ」


これがネット世代なのである。ただ、彼の中に醸造されつつある巨大な不毛が大なる負のエネルギーとなり発露に至るまでには今少し苦み走った思春期を送らねばならぬのだろうと察するには充分すぎるほど、彼は他にもやってきた生徒から酷いあだ名で呼ばれていたのである。だから私は、彼以外に労役を課すことで大人の贔屓というものを見せつけてやった。質問尽きぬ知識欲旺盛な彼が性的でなしに可愛く思えてならなかったのである。


「宗教について教えて下さい、キリスト教と仏教はつまり何が違うのですか」
「日米で考えてみよう。日本人の倫理観の多くは仏教に由来しており、根っこにはニヒリズムが蔓延る。消去法から生を択ぶと一語に尽くせば虚しいが、煮詰めた上の結論なのだから外人の考えるような悲観はそこにはない。理があるということである。諸行の無常なればこそ持たざる者の徳は未だ高く、行き過ぎた富を得る者への声は厳しい。

対してキリスト教特にプロテスタントの観念強いアメリカでは得る自由無限にして、持たざる者へ施すことをこそ徳とする。あちらボランティアが異常に盛んなのも倫理観の相違を知れば然りというわけで、なにかにつけ上から目線が気になりがちなアメリカ人だがそれは彼らにとって善行であり実際に触れぬことにはついぞ分からぬ優しさがある。理があるということである。人の成功を喜び同時に己の大成を信じる。

キリスト教は愛を説き、仏教は慈を説く。キリスト教は与える悦びを説き、仏教は与えられる悦びを説く。キリスト教は生きる意志を説き、仏教は生かされる意志を説く。神は自身に内在するとはいずれの宗教にも説かれる言葉だが、能動と受動の二元に還される両宗教なのだから自ず言葉の意味合いもそれぞれに異なる。あとは自分で本をよく読んでついでに女神転生をやり込んだらいい」
「なんでそんなに色んなことに詳しいのですか」
「禿だからだ」


私が久しぶりに生身で熱弁を奮った相手は実に、ふらりと現れた中学生であった。


溌剌たるPIZZA

まだアメリカにいる。昼から時間が空いたのでピザを食べようと思った。ちょうどこのあたりはかつてイタリア系移民の群れて成した地区で、今となってはちょっとした高級住宅地となっているらしい。確かに立ち並ぶ家々はどれもが広い庭を有し、安価な手押し式ではなく人の乗り込む大きな芝刈り機をそなえてある。ぼうぼうになるまで放ることなくよく刈り込まれた庭の凛々しい青味は金総書記の襟足かブラジル人女性の陰毛かといった塩梅で、斯様な細かな手入れを維持できる心的余裕とガレージに仕舞われている自動車の立派さから想定される金銭的余裕これらいずれをも叶える人々には少なくとも平均以上の知的水準が伺えた。そもそも庭の芝を美しく保つという行為は我々の考える以上にアメリカ人にとっては大切事であるらしく、他人の芝が青く見えるなどという諺も然りアメリカ人にとっては隣の芝が見事であれば誇張なく羨ましくもあり妬ましいことでもあると聞いた。ただ、エンジン駆動に黒煙巻き上げながら芝をバリバリやっつける様はなんともアメリカ的というか、巨漢共が芝刈り機に乗る姿は尻のはみ出かたや背中の丸さといいマリオカートのドンキーコングのようでもあり、かつての日本で見られた夕暮れ時に割烹着姿で庭先に水を打つ婦人たちの姿のほうが、よほど清潔な印象を私には与える。


それはそれとして、そんな芝の上等な庭だらけの高級住宅地の一角に、細い小道のどれを抜けてもイタリアンレストランが路面を挟んだ両岸に目の弱くなる彼方までずらり立ち並んでいる区画があって、ピザを食べたい私は路地を縫い縫いやってきた。


日本の路面はひとたび雨の降り始めたら黒光りするような濃色だが、こちらのはもっとずっと白くて、雲なき爽快な青空と白い路面とが地平線の向こうに溶け合うまでのコントラストは南国の砂浜のようである。両岸と形容するのはこのためで、また、道のど真ん中を歩いていたせいで危険な黒人の乗り込む大型車両にクラクションを鳴らされてから気付いたことには、一段高くなった歩道には誰が手入れをしているものやら毛足の長い芝生の絨毯が端正に敷かれており、等間隔に立ち並ぶ新緑の瑞々しい街路樹の間ごと、白人女性たちが容姿の割にはどうしてか色気に欠ける半裸姿でシートを敷き敷き日光浴に興じていたのである。玉木ティナ並がいないことを確かめると今一度私はインモラルな歩道から路面へと下りて、通りの続く限りその果てまでを、中央分離帯のように路面のど真ん中へと立ちすくみつつ眺め続けた。それほどまでに、明快な白青緑の三色から構成された空間にレンガ造の店々が茶けた赤い帯となって両岸に伸びゆくこの一枚絵は、ずいぶん私の想像する外国というものに近かったのである。


ひとしきり風景を楽しんで後、煙草の吸えるレストランを探した。路に面してテラス席のある店を選ぶと、地場のビールと16インチのピザを注文した。同席する青年は朝から水泳とウエイトに興じていたというだけあってシャツ越しにも筋肉の隆起がはっきりと見て取れ、湯気の出ているように生々しい。テーブルの真ん中から伸びたポールに支えられる大きな傘の下、淡い陽光を受けた彼の表情には彫像の如き陰翳がたくわえられていて、睫毛の濃さとあいまって妖しい色気を醸していた。隣にいる彼の婚約者よりも私に対して何かしら強烈なセクシャルな観念を想起させて止まない彼は、ピザを取るため手を伸ばすたびシャツの隙間から腋毛をちらつかせ、目のやり場に困る思いがした。そうして目線を外そうとガラス張りの店内を覗いてみれば、そこには同性の腋毛にへどもどする己の顔面が、全面に光を受けて一片の翳りなくタマゴのようにつるりとしていたのである。


「dandelion puffs」


さっきから私の取るピザ取るピザいちいちにタンポポの綿毛がへばりついてくる。迷惑そうに呟く私に対して、彼は問う。


「花言葉、知ってますか?」
「タンポポの花言葉は、真実の愛、思わせぶり、あとたくさんありますね」
「難しいですね、反対ですね」
「ときがたい謎というのも花言葉の中にあります、タンポポとはそういうものなんでしょう」
「ふぇぇ」


彼は日本語も堪能なので、そこから先は日本語で続いた。隣では彼女が退屈そうな顔でわからない言語の会話に耳だけは貸しつつ、ピザの上を剥がして頬張っている。彼女の皿にはピザの旨味たる表層がどっさりと盛られている。


「私、ピザというかチーズが嫌いなの」
「おいおい彼はピザが好きなんだ、そういうことを言ったら駄目だよ」
「ふん」


なんでも二人はつい先頃に婚約したそうで、それも出会ってからの手続きが極めて迅速であったため未だたいへん熱を帯びているらしかった。そこへきて、元々は近場の祭りへ出向く予定を潰されてまで私との食事会に時間を奪われ、蓋を開けてみれば日本語でばかり会話をしているし、私の視線は恋する女のように照れているのである。まだ若い彼女にしてみれば、それすら嫉妬めいた不機嫌の種になるらしかった。さりとて深読みしすぎかもしれない。


「若いというのは素晴らしいことですね」
「YES」


三十路の私に対して、溌剌たる笑顔で彼女が応える。と、急に街路樹をざわめかせた突風はテラスを駆け抜けると、彼と彼女の頭にそれぞれタンポポの綿毛を二つずつ残して去った。

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