地獄の鬼

地獄には鬼がいるという。地獄には悪業を働いた人間が堕ちるという。死んでなお鬼に虐められねばならぬほどに悪業とは許されざるものであるらしい。悪業とは一体なんであろうか。それはもうよほど悪いことに違いない。だが我々は動物を食うなどといった殺生をしているのだから既に大罪人である。生まれもっての罪人たる人間を、それでも仏が救うと説いたのは親鸞上人、原罪を救済するのは神であると説くのは、キリスト教。だが、信心深くさえあればどんな大罪であれ悪業は全て放免、逆に信仰を怠れば鬼に虐められるのだという論法がまかりとおってしまうと、現世でレイプ一万件男すら、信仰心さえ持っていれば救済されてしまうではないか。してみれば最大の悪業とは信仰に他ならぬ。そんな免罪符あってたまるか。信仰を盾に地獄行を免除されんと企てる輩こそ、本物の悪党である。鬼が罰する人間が頭足らずの小悪党ばかりで良いのだろうか。良いはずがない。だから私は、やっぱり選りすぐりの悪い人こそ、鬼の金棒でひっきりなしに殴打されねばいけないと思う。鬼は、仏神を超越する存在であらねばならぬ。


自分のしてほしいことを他人に施すな、趣味じゃないかもしれない、とそんなことを云ったのはソ連型社会主義になびいた髭面の作家バーナードショーだが、いかにも作家らしい偏屈なアフォリズムではあるものの彼の言葉には一理あって、たとえ善意が根底にあれどそれが行為の正当性を保証しない場合もたくさんあると私は思う。たとえば私は鍋奉行的な人によって私の取り分のサラダにドレッシングを勝手にかけられたりすると、それだけでもう食う気をなくす。私にとってそれは、立派な悪業にほかならない。あっ、こいつ鬼に金棒で殴られるべきだなと、思う。ただ、それくらいでかんしゃく起こす私の性質そのものが、他人にとって悪業であると云われたら、それも否定しない。ああ、私もまた、鬼の金棒で殴られねばならないなと、思う。


つまり、みんな主観では正しくとも客観視すれば必ずや悪業を働いているに違いないのだ。この世には、寿司の形をしたゼンマイチョロQもどきのような、作った先からゴミになるものを作る人もあれば、なかば詐欺師の口上で老人の資産を管理運用することに労働精神をフル活用する銀行員もいる。私から見れば、ほとんどの人が金棒の餌食になるべきだと思う。何もしていない人は、その何もしていなさゆえに金棒で殴られるべきだ。働きすぎて立派に輝いている人は、その立派さが周囲に劣等感を与えているという意味において、これまた立派に金棒の対象である。


たぶん、鬼の金棒はクッション材でできていると思う。

マヤ暦と人類滅亡について

 さて今年は2012年ですから、アセンションだのフォトンベルトだのホピ族の予言だのと人類の滅亡が、偏差値の低い順から騒がれることになっている。私などすでに、結構騒いでいる。


 人類滅亡を示唆する一つの証拠として、マヤ暦が今年の十二月二十一日に終わる、というものを挙げる人がある。マヤ暦についてはwikiを見るのがもっともわかりやすいけれども、私もせっかく覚えたものを忘れたくはないので以下にその仕組みをはしょりながら書くので、ぜひとも酒のつまみに。参考文献は『古代マヤの暦』(創元社)。中身は薄く簡潔で、装丁に半額とられたかなと、思っている。


基本単位
a 大地の神の周期 7日
b 夜の王       9日
c 天界の神の周期  13日
d ウィナル     20日
e 月期    29/30日 交互


g ツォルキン  260日 c×d 
h トゥン    360日 2×b×d
i 計算年     364日 4×a×c
j ハーブ     365日 2×b×d+5


周期
k カレンダー・ラウンド 18980日 52×j,73×g


長期暦
l カトゥン    7200日 20×h
m バクトゥン 144000日   20×l, 400×h
n 時代       5125年   13×m, 260×l, 5200×h


 我々は一般に10進法を用いるが、マヤでは20進法が用いられる。例外もあるが、それは見ればわかる通りとなっている。まずは『ツォルキン』から説明する。


『ツォルキン』
 260日 天界の神の周期(13)×ウィナル(20)


 マヤの儀式と予言を司る260日暦で、20日周期が13回繰り返されることで一周となる。この20(ウィナル)が、先に述べたようにマヤ暦が20進法に則っていることを証明してくれている。細かい話をすればウィナルとは20のキンをまとめた呼称で、つまり1ウィナル=20キン、キンとは現代的な呼び方をすれば『日』に近く、イミシュ、イク、アクバル……、アハウとそれぞれに名称がついている。こう書いてしまうとでは天界の神の周期とは何だと云われてしまいそうだが、こちらはむしろ数字と捉えて欲しい。


イミシュ、イク、アクバル、カン、チクチャン、キミ、マニク、ラマト、ムルク、オク、
チュエン、エブ、ベン、イシュ、メン、キブ、カバン、エツナブ、カワク、アハウ


 という20の日(キン)に対して、1〜13の数字が共に前へ進んでゆく。1イミシュ、2イク、3アクバル……と続いて、13ベン、次にまた1から、今度は1イシュ、2メン……となる。13アハウまで回って、次が再び1イミシュとなるために、ちょうど260日間が必要という寸法だ。歯車など自作してみれば非常に分かりがよいし私もそういう絵を描けば親切には違いないけれども、たぶんこの時点で誰も読んでいないと思うから、描かない。


『ハーブ』
365日 (18×20)+5


 これは『不正確な一年』とも呼ばれる365日暦で、うるう年はない。20日の月が18ヶ月と、不吉な5日間(ワイェブ)からなる。先ほどは数字+キンの名前で日付をあらわしたが、ハーブは0〜19の数字と月の名前で日付をあらわす。一周することで365日となる。月の名前は以下の通り。


ポプ、ウオ、シプ、ソツ、ツェク、シュル、ヤシュキン、モル、チェン、
ヤシュ、サク、ケフ、マク、カンキン、ムワン、パシュ、カヤブ、クムク、ワイェブ


 元日は1ポプとなるわけだが、では0はどこへいったという話になる。というのはマヤでは最初の日を『着座』と定めており、各月の最後の日が次の月の着座の日とされていた。ですから0が月の終わりとなる。そこを間違えないよう。


 で、ここからがややこしいのだが、マヤでは1ポプの日に該当する『ツォルキン』の日付が、その年のハーブの名前となる。『ツォルキン』の260日暦と『ハーブ』の365日は、同時に進行している。これが重要で、たとえばツォルキンの日付のうちエツナブが1ポプに該当すれば、その年はエツナブと呼ばれる。このツォルキンの日付はイヤーベアラー(年の担い手)と呼ばれる。元号とは異なるけれども、年に名前の付いているニュアンスを日本人が理解しようとすれば『平成』だのといったものになろう。


『カレンダー・ラウンド』
 52×ハーブ(365)、73×ツォルキン(260)

 
 ツォルキンとハーブの日付が同じ組み合わせとなるのは、上の式にあるように1万8980日に1日となっている。この52年周期は、カレンダー・ラウンドと呼ばれている(マヤの呼び名がわからないので後世学者がつけた)。人が生まれて52ハーブを経てこの大きな歯車が一巡するため、メソアメリカではこのような人が古老と呼ばれたらしい。


 さて前述までがマヤの基本周期だが、他にも惑星周期というものがあって、金星は584日、火星は780日、木星/土星は819日など、あって、ただこれは晩飯も近いので省略する。


『長期暦』
1時代=187万2000日


 世間が騒いでいるマヤ暦の尻切れは、この長期暦の終焉を指している。


20キン=1ウィナル               20日
18ウィナル=1トゥン              360日
20トゥン=1カトゥン             7200日
20カトゥン=1バクトゥン   14万4000日
13バクトゥン=1時代   187万2000日
 

 先ほどまでの暦はあくまで近視眼的な、同時に当時の人々にとっては実用的なものであったのに対し、長期暦はたとえば予言や起源などを記すため用いられた。マヤの神話では世界はいくつもの時代を経て今の時代になったとされており、現代は前の時代が終わった日である『13.0.0.0.0 4アハウ8クムク』、西暦にして紀元前3114年8月11日に始まった。
 

 で、ここから13バクトゥンつまり約5125年に達すると、新たな世界創造が行われるというのがマヤ暦で、それが今年の12月21日というわけである。そうして、そこから先に関する記述はちょうど石碑が割れていてもはや解読不能であると、故に恣意的に利用されているのだと、そういう話なんだ。


 ところが、このバクトゥンよりも一層長い単位が実在するというのが研究の結果のようで、例えばティカルの石碑には『ピクトゥン』という単位がある。これは、20バクトゥン、つまり石碑の建てられた日から数えれば西暦4772年10月21日にあたるという。まだあと2700年以上も先のことを、とりあえずマヤの人々は落書きしたようである。


 というわけで、我々は人類の壊滅的な被害によってむりやり達成される『底辺に合わせた平等』を期待するよりは、マヤ暦なんぞを覚える脳味噌が余っているのなら、エクセルのマクロ関数でも勉強したほうが幸せになれるかもしれない。

つるりと忘れて

 左脳だけがあれば万事用足りるような他愛もない労働に明け暮れていても、防衛本能かしらん、意図せぬ拍子で脳が逆回転を始めることがたまにある。たいてい、自動車で打ち合わせへ出向く最中に、降ってくる。


 するとどうだろう、私の自意識は半ば憑き物にかかったように薄れて、口元から五七調の文句がとめどなく溢れ出る。ついこの間も、そうだった。


「ああ、これをこそ書き溜めねばならないのだ」


 いつもならばその場限りで零れるだけを零して、後には決して掬えぬ自分の範疇を超えた言葉たちではあるが、かろうじて残った理性は、これを刻まねばならぬと私の手を携帯へと向けた。メールを開き、ハンドル片手に文字を打つ。花に嵐の、たとえもあるさ、さよならだけが、人生だ……、


 するとどうだろう、ふいに隣から猛烈なるサイレン音が響いて、何が起きたと見遣れば難しい顔をした警察が私に止まれと合図をしている。運転時携帯電話の使用は道交法違反であるから、そのようにして私は路肩へと停車を命じられた。


「免許証見せてー」


 常々思うことだが、警察官のあの言葉遣いの汚さと尊大な態度はいったい何なのか。語尾を伸ばす成人男性が通用する社会がどこにあるのか。法律さえ破らなければ相手を小馬鹿にしても良いというのは実際に法律を破った者に対峙した場合に、理屈としては正しいが社会正義を信条とする割にはずいぶん品性に欠けやしないか。もっとも、違反者の戯言ではある。


「あれーこの免許証切れてるねーお宅無免許だよちょっと来ようか」



そのようにして私はパトカーの指示するままに車を走らせインターチェンジ脇の詰所へと連行された。更新を忘れ、期限が過ぎていたのである。するとどうだろう。取り調べ室へと連れ込まれ、本当の取り調べが始まったではないか。罪状は、脇見から一転、無免許運転となった。


「調書取るから質問に答えてねー私が書いていくから最後に署名ちょうだいねー」
「ちょっと待って下さい、僕の言葉を文章にして、僕の言葉として書面に残すのならばそれはほんらい僕が書くべき文章ではないでしょうか、どうして僕の一人称を利用しつつ貴方がなりすましの体で書くのでしょうか、代筆人としての貴方の署名欄も見当たりませんが。貴方の質問によって回答を誘導されたきわめて恣意的な僕の言葉が貴方によって記録される、それはどう贔屓目に見ても警察官の都合に支配された運命でしかない、異邦人で云うところのムルソーのようなものだ」
「そういう仕組みなもんでねー」


 憮然、取り調べが始まった。まず、無免許となれば免許取り消しは当然として、更に罰金が数十万と聞かされた。とはいえそれは脅しで、実は警官は、うっかり更新ミスという情状酌量に基づいた寛大な処置を私にくれる予定であったようで、そのような調書作りにそこから先は向かっていった。下げて上げるパターンである。とにかくうっかり忘れていたところに論理的な根拠を持たせたい警官は、いかにうっかりしていたのかを私にしつこく聞いてきた。私も罪の軽くなる方向になびきたいものだから、はじめ呪詛した警察官に対してたちまち全面的な協力を約束し、ありったけのうっかりを、時に悲壮に、時におもしろおかしく語りつくしてしまったため、調書から読み取れる私という人間は本当に相当のうっかり者へと成り果てた。最後に文面を音読にて聞かされた時には、そんなうっかり者まずこの世にはいるまいと赤面必至のうっかり具合であった。通知の葉書を見ていない理由は、別れた女がアパート付近を徘徊しているのが怖くて近寄れなかったからだと、これは本当のことを云った。


「身元引受人が来るまでこちらで待っていて下さい」


 三十路直前でありながら、父親に警察へと顔を出してもらうはこびとなり、私の昨年末は終わった。明けて新年、羽衣伝説名高い三保松原の神社にておみくじを引いたところ、


『結婚運:近親者との結婚は知能・身体能力に劣った子供を残す可能性あり、避けるべし』


 おみくじ専門ライターというものがいるのか知らないが、今回私の引いたくじは誕生月日に応じていたがため種類は少なくとも三百六十五通りはまず確実にあるはずで、そうとなれば書き手にネタが尽きていたのだろう。十月以降は更に枯渇していると見るのが妥当で、十一月生まれの友人のくじに至っては偉人の格言が異様な級数にてでかでかと書かれていた。

新年

 あけましておめでとうございます。世界人類が平和でありますよう。


 さて明日から仕事だが、いやですねえ。妙な動きで腰を悪くして歩くも苦しい不具ならば、凍てつく空気がたださえ日々に根負けしそうな細い心を容赦なく折りにかかる。心身に、悪い。冬が好きだと強がる若さもついに私の中から消えてしまった。ネガティブが暗刻こしらえ待っている。どうしようか。


 目下の後ろめたさは、明日提出せねばならない図面を、放ったままでいることだ。明日には設計へ提出せねばならないのだが、線の一本も引いていない。正直のところ独学の壁めいたものにぶつかっているため、今回のそれに関して云えばやれといわれたところで時間をかけてどうにかなる代物でもないので、『すんませんやっぱ無理です』をぶつけるタイミングを逸したというか、図面を描き切ることよりは、なんとかそれ以外の方法で事態の収束をはかるべく薄いところを掴むような妙案を練っていた。何も浮かばなかったばかりでなく、今となれば誰かに助力を借りられる時間でもなくなってしまった。


 かくなる上は怒られるほかないのだが、それよりは呆れられる線が濃厚で、またかと思う次第。私は建築という未経験の分野に飛び込んで以来、日々自信を喪失することばかりを業務の軸に据えている。もう、文章で荒く稼げた自分などというものに対する自負もなければ、レインボーのアイサレンダーを原曲キーで歌いきる難しさを相手に説くゆとりも失った。何を誇るものもないよ、そう諦観できるくらいには打ちのめされてきた。


 息子が産まれる日がいつか来るのやら、今の私にはまるで見当もつかないが、名前は決めてある。猫木・適材適所君。人には、誰であれ長所があって、そこを仕事に活かさない手はない。私は、これまで研いできたもの全て錆びつかせながら、私の人生の中でこれだけは不要であろうと幼少の時分に放棄してきたものばかりを仕事に活かさねばならぬことの苦労たるや並大抵でないことを肌身に感じている。だが私は子に委ねるよりは孕ませる相手もいないだけまずは自分が救われねばならない。


 




毛色の白い渡り鳥の一群が水場を離れて一斉に空へと羽ばたいていった。ところが地上から眺めると、彼らは黒いのである。腹のところだけは黒い羽が生えているらしかった。目に見える現実のつまらなさに失望した私は目を瞑りながらセブンセンシズにて運転を続けた。するとどうだろう、怖くなって十メートルも進むことなく目を開いてしまったではないか。しかも眼前には老人の信号無視横断。あのまま進めば轢死必定。


「渡り鳥のせいだ」


結局のところ対峙するほかないのだ。私に殺意がなかったことは誰より私がよく知っているけれども、ためらいのないアクセルにじじいが轢かれていたら……。現実に失望したことと目を瞑ったことが理屈で繋がるのは私の頭の中だけである。人はそれを破壊的衝動と見るかもしれない。或いは心神喪失とすら診断されるかもしれない。断固否定しようが、運転中に目を瞑る行為の異常性に、私として腑に落ちる理由があろうともそれを受け付けない他者の心。本当にそんなことをするとしたら大した阿呆だと云う人の意見が、遠いが近い。なまじ擦り寄られて理解者ぶられるよりかは、無理解を貫いてくれたほうが良い。


私は、共に酒を飲み、美味いものを食いながらひと時の安息を互いに過ごせる良き友と、精神的活動に充てるだけの十分の余暇さえあれば、あとは話のわかる可愛らしい年上の彼女と、即金七億円のほか欲するところは何もない。対峙する気がないと云われても、わかるきがする。だが、かくも苦い現実ならば、いっそ夢を見たまま死ぬも宜しい。身体を壊した。

豆は畑の肉にあらず牡蠣は海のミルクにあらず

雲丹が栗との比喩を許せないと考えたのは、高い食物にそなわる上等な味をわざわざ安いものへと置き換える意義が見出せなかったからであった。してみれば他にも思い当たるのは豆が畑の肉だの牡蠣が海のミルクだの、聞くも哀れな喩え、牡蠣を食ってミルクなんぞを想起する舌に期待できる食文化の向上はない。牡蠣の濃厚な味わいに、まず3.5以上の牛乳を思い浮かべる、この一連のひもじい思考に待ったをかけるだけの判断力が欲しいということを、私は訴えている。


雲丹を栗、牡蠣をミルクと喩えるのは、栗やら牛乳やらを知らぬ人はいないからそう云えば万人に伝わるという先人の優しさか、或いは「へへっ、金持ち連中がありがたがる焼きウニってものがどんなに美味いものかと期待してみれば、なんてことはない『栗』の味じゃねぇか」などといった貧乏人の僻みめいた皮肉に端を発するのか、私は知らないが、いずれにせよ基準を下方に揃えることが本来の価値を喪失させかねないという意味においては「ブスは三日で見慣れる美人は三日で見飽きる」にも似た、負け惜しみめいた卑屈を感じる。ブスにはブスの価値が外見以外にあるというのは可能性に過ぎないのであって、いきなり容姿以外の要素を持ち運んで器量気質の優劣で美人を貶めようとするのは見当違いというべきか、美人が嫋やかで男を立てる良妻であればいよいよブスに残された道はなく、残酷な結論に落ち着くかもしれない比較はそれを始めないことが優しさであろう。本当に美味い栗を食おうと欲すれば雲丹より高くつきかねないという可能性、同じ値段を出すのならやっぱ雲丹のほうが美味いわと結論づける可能性、なまじ両者が結び付いているがためにこういう考えが出てきてしまったら、栗の立場がないですよと私は優しさ混じりに呼びかけている。価値崩壊のリスクは雲丹側にばかりあるわけではない。


だから私は栗と雲丹は完璧に別物として把握したいし、牛乳と牡蠣に至っては言に断るも愚かしい。それぞれの食材にあっては、較べられないことが最も美味く食われる秘訣であるように思う。雲丹味というもの、牡蠣味というものを、喩えもいらぬほどに皆が認識しさえすれば万事丸くおさまる簡単な話です。


うるせえことを云っているなぁと思う女性がおられたら、おちんぽみるくという衒語にそそのかされてどれだけ失望したかを思い返していただきたい。






no title

牡蠣、鯖、蟹と贅を尽くし、そろそろ満腹かという段になって箸をかちゃりと茶碗に揃えると、待った待ったと取巻き衆がホイルに包まれた食材を持ってきた。また松茸かとやや食傷気味に卓上のホイルを剥くと、果たしてフェレット三日分の糞ほどもあろう焼雲丹であった。


「食べてみろ、栗みたいに甘いぞ」


なるほど時に鼻水のような生雲丹よりも食感がホクホクとしていて且つは熱に甘味も引き出され、たしかに栗っぽい。満腹気味ではあったが茶碗へ米を盛ると私はホイルに包まれた雲丹で米を覆い、醤油を滴らせて一気にかきこんだ。濃厚な焼雲丹の風味が無個性な米に絡んで相当に上等の味を醸した。


「どうだった」
「美味かったです」
「栗みたいだろう」
「美味かったです」


雲丹という高級食材にわざわざ手を加えて、その果てが栗の風味で、本当に良いのだろうか? 海に栗のたとえもあるが、見た目イガ同士だからといって味すら似ているとしてしまっては、雲丹に対して開かれた可能性が狭過ぎて不憫だ。だから私は雲丹を栗にはたとえないが、代案は見つからない。

仲村みうが脱いだブルース

固くすべきはチョーキングの指先ではなかったようで、なんと、仲村みうが! 脱いだ。あらゆるMUTEKI作品を凌駕する事件、写真集が発売されるらしい。私にとり同じく噂のたっていた加護亜依よりも画期的な人物だが、先駆けて週刊誌に掲載されたか何かの画像を見て幻滅した、構図がなってない。


仲村みうは、えげつないアングルから撮られてこその仲村みうで、着衣のハンディキャップを感じさせないエロスがあったのはやはりそのあたりの工夫、脱いで乳首と毛を出せばガンダム立ちでもいいんでしょとへんに割り切られては困る。写真集となればカメラマンのどうでもいい作家性なんかも盛り込まれがちなのでおそらくは神戸牛でハンバーガーのような素材殺しに仕上がることうけあい、今後は映像作品にこそ裸体が望まれる。私が監督であれば、これまでのような着衣撮影を冒頭に持ってきてオフの着替えを盗撮気味に、から始まって、プロデューサーへの枕営業などメタの仲村みうをふんだんに用いた作品を間違いなく撮るし大衆もそれを望んでいるだろう。或いはデビューからの映像を本編に散りばめても良い。だがどうせAVには来ないだろう、そういう顔をしている。



異音だらけの郊外

自宅用のアンプとシールドを買うため楽器屋へ行き、ついでにピックも買った。真空管が売りのVOXを店員が薦めてくるので、これでも何でも良いのだがセミアコから発せられる音を確認したい、ちなみに私のギターは安いセミアコだと伝えると、ギブソンの335を手渡してきて、これならニュアンス近いんじゃないのと云うものだから、こんなに高いギターじゃねえよとトーカイ社製のセミアコを、これも倍近く高いが、持ってこさせた。私は残念ながら左利きだから貴方が試し弾きにて音を出してくれろと指示すると、ギター屋の店員とは思われぬ下手くそのプツプツ音が店内に響いて、どうやらレットイットビー、それも青盤に収録されていたほうの単純なペンタトニックスケールのソロ、をひとしきり終えて、渾身のドヤ顔。店員たるもの安機材にもかかわらず極上のソロを披露して、客にその性能を過大評価させるのが営業努力ではないのかと思ったりもしたが、それ以上にブブブとノイズがやかましかったのでこれでは演奏以前の問題、アンプの不具合かと尋ねると、違う安ケーブルのせいだと答える。宜しいならばこれにしましょうと購入に至り、自室にて繋いでみれば物凄いノイズである。犬が侵入してきたのでチョーキングで猫の声真似をして油断させたところに渾身のバレーコードを繰り出してみると、よほど驚いたのか全身をプルプルと震わせてその場へへたり込んでしまった。


犬殺しの異名をとるためギターをやるわけではない。



チョーキングでイッたふり

鈍くも確かな痛みが今日も私の心を軋ませる。友人からメールが一本、子が産まれたという。珍妙な名をつけるに決まっているが、森鴎外の本名は森林太郎と、親のふざけが精神性を決定づけるわけではない立派な例もある。もう一人、これは乳を揉んだ同級の女だが、結婚すると聞きまして、おめでとう。


周囲がおめでたいのはたいへん宜しいこととして私そのものはドドメ色、そろそろ頭打ちというか課せられた役割に対して引き受ける前から飽きている。このつまらなさは自殺級だが、一縷の何かどえらい楽観が私には潜んでいて、親の遺産である。滓! 私は両親にかけられた五億の保険金ほか貯蓄加えて土地諸々を一身に背負う一人っ子だが、それらを放棄するかわりに週休が二日の生活を若い時分に獲得できる選択肢が用意されたら迷わず後者を選びたい。余暇に勝る価値などなし、余暇をどこまで労働に譲るか、という観念が私の中には未だ根強いので、労働を敷き詰めた果ての余りの部分を拾ってそれを余暇と呼ぶ現状には、言に尽くせぬ反感がある。その反感が逆説的に動力となっている現状は、暗黒騎士ではパラディンに及ばないことを思えば少しも発展的ではない。


ともあれこの耐え難き絶望は宿世、どうしのいでゆくべきか。退治できねば対峙せねばならぬ、付き合い方が大切である。消去法の挙句、ああもうこれは農園でしごき抜かれた黒人の魂宿るブルースしかないと思って、一昨日にエピフォンのシェラトン2を購入した。久々ギターを手にして高校時分と寸分違わぬあぐらの体制、ひとしきり鳴らすとチョーキングのやりすぎだろうか、燃えるような痛みを指先に残したため現在氷水に癒している。一つきりのアンプは猫のゲロで触りたくないから通しておらず、音の具合はまるでわからないが弾き心地は悪くないし、ストラトよりもしっくりきている。


ギターで天下はとらない。






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